2023年09月01日

「船場」は、元々大坂の西側湿地帯を豊臣秀吉が造成・開発した大坂の新市街地です。
それが「大坂の陣」でいったん焼け野原になりました。
その後、江戸幕府の松平忠明によって、大坂が「天下の台所」と言われるまでに復興し、船場も大坂の活性化の中心として発展を遂げました。
しかし、太平洋戦争中、大阪には軍需工場も多く、経済の中心でもあったため、大空襲によって再び焼け野原になりました。
戦後の復興は、船場においては時間がかかりました。かつて形成された格子状の街区構造の再開発には想像以上の費用がかかったからです。
しかし逆にそれが幸いして、戦災を免れたかなりの戦前の建物が遅くまで残ることになり、大阪の歴史を語るうえで貴重な遺産となりました。
明治・大正・昭和初期に欧米の建築意匠や構造、建築計画などに影響を受けて建築された建物を「近代建築」と呼ぶそうですが、船場にはそのような建物も多数現存します。
元の姿を残している建物もあり、改造・改築されて変身した建物もあり、多種多様です。
船場の街中では、このような建物に興味を抱き、カメラを向ける人たちをよく見かけます。遠くからの観光客と思える人もあり、関西の人でもなぜか「船場」に興味・愛着を抱き、飽くことなくその風景を楽しんでいる人も少なくありません。
ここでそれらの建物を網羅的に紹介することはできないので、ここでは、私自身がとくに興味を抱き、頻繁に出入りしたり、得意げに知人に説明したりする思い入れのある建物を順不同で紹介していきたいと思います。(このエッセイのシリーズの中で重複した説明が所々にある点はご了解ください。)

芝川ビル 1927年(昭和2)築 伏見町3丁目
私の事務所にもっとも近い場所にあり、この建物にカメラを向けている人を毎日のように見かけます。
芝川家は元々唐物雑貨の輸入商で、このビル内で江戸時代から続く花嫁学校も経営していました。
インカ風の装飾をもつアール・デコの建築、角地に面した曲面に入口を開き、1階の龍山石による装飾、最上階の窓上部の装飾など、ユニークな意匠が見所。今やその際だったアンティーク性が魅力なのでしょう。
1934年(昭和9)、大日本果汁株式会社(現在のニッカウイスキー)の設立総会が開催された場所でもあります。この会社の代表者はNHK朝の連続ドラマの「マッサン」こと竹鶴政孝であり、芝川ビルのオーナーはその有力支援者、出資者でした。
現在はニッカウイスキーを扱うバー「ザ・コート」やベトナム料理店があり、ビル最上階はモダンテラスが復元されイベントに利用されています。

伏見ビル 1921年(大正10)築 伏見町2丁目
芝川ビルのある(私の事務所もある)伏見町通を東にたどると、さほど大きくはありませんが、2つ並んでアンティークなビルが目にとまります。
伏見ビルは、元々はホテル。この界隈が昔大阪の金融センターであったことの名残とも言えます。その後テナントビルとして使われ、現在に至ります。テナントの部屋割りはホテル時代の客室のイメージです。
概観のデザインはシンプルですが、角が直線でないことや外壁最上部に十文字の装飾など、やさしいアールデコ調の感じが伝わってきます。1階は、昔は理髪店、現在はギャラリー。上品なエントランスに心がなごみます。角に、「船場倶楽部」の事務所もあります。

青山ビル 1923年(大正12)築 伏見町2丁目
青山ビルは、外壁一面を覆う蔦(ツタ)がほかでは見られない特徴で、「ツタで覆われたビル」としてよく知られています。このツタはかつて甲子園のツタから株分けしてもらったものです。
元々は実業家の個人邸で、地下にはダンスホールもあったモダンなライフスタイルが想像できます。概観はスパニッシュ様式で、アーチの玄関、テラコッタ製の大きな窓台、窓まわりの装飾やステンドグラスなどが特徴。その後、テナントビルに転用されました。

コニシ株式会社(旧小西儀助商店)社屋 1903年(明治36)築 道修町1丁目
伏見町通を東に進み堺筋を越えると、堺筋に面して黒漆喰塗りの20間にわたる高い塀と漆黒の木造家屋があります。独特の存在感を呈するこの建物には多くの人が振り返って周囲との違和感を確認するようです。
以前の商号は「小西儀助商店」でしたが、現在は「コニシのボンド」で有名な「コニシ株式会社」。
創業は1870年(明治3)の薬種商で、1876年(明治9)からは洋酒などの製造も始めました。
現存する社屋は2代目小西儀助氏が3年の年月を費やし、敷地315坪、3階建て、3棟、土蔵造りの商家として建築しました。正面南側に店舗棟、奥に居住棟を構える表屋造(おもてやづくり)で、敷地奥には3棟の土蔵が並びます。
1945年(昭和20)の大阪大空襲の災禍も免れ、ほぼ昔の姿で残存しており、1994年(平成6)まで同社の本社でした。今もときおり見学会が催されています。
なお、上記伏見ビル、青山ビル、コニシ株式会社ビルは「有形登録文化財」に指定されています。

三井住友銀行・大阪中央支店 高麗橋1丁目 1936年(昭和11)築
同じ堺筋に面して三井住友銀行・大阪中央支店の建物があります。
元々は「三井大坂両替店」として1683年(明治16)に設立されました。江戸日本橋に「三井両替店」(呉服屋から始まった三井財閥の出発点)がありました。
現在の建物が竣工したのは、御堂筋が完成する前年1936年(昭和11)です。
それ以後は御堂筋が大阪の代表的な道路となりましたが、それまでは堺筋が大阪第一の目抜き通りでした。
鉄筋鉄骨コンクリート造り、地上3階、地下2階。外壁は花崗岩の「イオニア式列柱」。堺筋側は円柱の付柱、南側面は角柱の付柱で、いずれも柱頭はイオニア式。プロポーションや彫りの深さ、ディテールの端正さなど、威厳のある建物です。上部の楕円形の飾りは、ローマ神話に登場する商業の神「メルクリウス」の持ち物を表しているそうです。
1990年代、太陽神戸三井銀行大阪中央支店→さくら銀行大阪中央支店→さくら銀行大阪支店→三井住友銀行大阪中央支店、という変遷を経て現在にいたります。

三井住友銀行大阪本店 1930年(昭和5)完成 北浜4丁目
銀行ついでに、場所は離れていますが、「住友本店・銀行本店」の建物を紹介します。
土佐堀通に面したこの建物は、1895年(明治28)に住友家が本格的な銀行業への進出を決意したときから建設が構想されていました。
1908年(明治41)に現敷地の南側に木造西洋建築の「住友本店仮建物」を竣工させ、その後の工事を経て1930年(昭和5)に「住友ビルディング」として完成させました。
外観は一見シンプルですが、大きな建物で、彫りの深い窓は重厚さがあり、同時代のビルとは一線を画する貫禄ある建物です。
土佐堀通に面し、そのすぐ前を土佐堀川が流れています。川の北側対岸から眺めるこのビルは絵にも写真にもなる景色です。
ビル正面中央に立つ2本のイオニア式の柱とその上の梁状のエンタブラチュアが印象的です。外壁には兵庫県高砂産の黄龍山石が使われています。
ビルの中に入ると、1階の壮大な吹き抜けの空間に大理石製のコリント式の柱が31本立っており、その細部の文様も含めて印象的なものです。

大阪取引所ビル(元大阪証券取引所ビル) 1935年(昭和10)築 北浜1丁目
北浜は江戸時代から両替商や米問屋、米仲買などが集まる金融の中心でした。
1878年(明治11)、五代友厚、鴻池善右衛門、住友吉左衛門らが発起人となって「大阪株式取引所」が設立されました。
このビルの原型は、1935年(昭和10)に、赤れんが造3階建の建物として建築されました。
株の売買が行われる取引所で、1999年(平成11)に株取引がコンピュータで行われるようになるまで、この建物の中では多くの人がひしめき合い(収容人数2000人)、手振りで株の売買が行われていました。
吹き抜けのエントランスホールの壁にはイタリア産の大理石が張り巡らされ、窓のステンドグラスは繊細なアールデコ調。
現在のメインの建物はこれの東側に2004年(平成14)に建築された24階建てのオフィスビルですが、もとの金融街・北浜の顔である玄関ホールや貴賓室は保存されました。
ビルの正面玄関前(土佐堀通と堺筋の交差点北東角)に、「五代友厚」の銅像が建っています。五代友厚については前にも書きましたが、江戸から明治にかけて激動する大阪経済の再構築に驚異的な貢献をなした、大阪人にとっては決して忘れてはならない偉大な人物です。

北浜レトロビルヂング 1912年(明治45年) 北浜1丁目
大阪取引所ビルの土佐堀通を挟んだ向かい側、土佐堀川沿いにおしゃれで、こぢんまりとした煉瓦造2階建てのビルがあります。周辺の圧倒的なビル群を眺めるとき、よくぞ今まで残っていてくれたと感謝したくなるような建物です。
端正な長方形の正面は両サイドを柱のように出っ張らせ、1階の中央に入口、2階にはアーチ型の窓、両脇に縦長窓を組み合わせたヴェネチア窓(セルリアーナ)を設けて美しいバランスをとっています。
1階では紅茶やその関連のグッズ、ケーキ、スコーンなどの販売、2階はイギリスのアンティークでしつらえたティールーム(喫茶店)になっています。窓の外は土佐堀川が流れています。
このビルは元々、1912年(明治45)、株の仲買商を営む企業の商館として建設された建物です。当時向かい側に大阪証券取引所があったからこその建物と言えます。
現オーナーが後にこれを譲り受け、1997年(平成9)、内外ともに英国式の紅茶専門店として生まれ変わらせました。

日本生命保険相互会社 1938年(昭和13)築、1962年(昭和37)築 2015年(平成27)築 今橋3丁目
淀屋橋交差点から少し南、御堂筋沿い東側に大きく立派なビル群があります。
1889年(明治22)に創立された日本生命保険が、1902年(明治35)、ここに本店を構えたのが最初です。
その建物の正面は当時のメインストリートである東側の心斎橋筋に向いていましたが、御堂筋の拡幅に伴い、後に御堂筋側に7階建ての増築がなされました。
現在の本館の工事が完了したのは1938年(昭和13)、その南側の南館が完成したのは戦後の1962年(昭和37)です。
最初の赤煉瓦の建物から、御堂筋の景色として定着している現在の白い花崗岩の風格ある建物になりました。
2015年(平成27)には、東側に超高層の東館が建設されました。
本館のあたりは、江戸時代、大坂の学術において中心的な役割を果たした「懐徳堂」があったところです。
日本生命も協賛して、本館ビルの南壁面にそのことを記した銘板が埋め込まれています。その横に、地上5メールを越える大型の石の記念碑も建立されています。
なお、私は、前述した「五代友厚」の名前とともに、この「懐徳堂」のかつての存在についても大阪人として忘れてはならない歴史の一齣であると思っています。

 

(参考文献 橋爪紳也監修・著「生きた建築 大阪」ほか)