事務職員のエッセイ

2021年09月15日
紙の箱 と 桐の箱

ちょっと前にKOBEとんぼ玉ミュージアムで竹内大祐先生の作品展があったので見に行った。
竹内先生は緻密で美しい幾何学模様のとんぼ玉やコアガラスを制作されるガラス作家さんで最も好きな作家さんだ。
私も竹内先生の作品を一つは持ちたいと思うが、この大先生の作品は小さくても一つウン万円もするのでそう簡単には買えない。
この日、他の作家さんも交えて竹内先生とお話をする機会があった。
話の中で、作品を販売するときの箱は「紙の箱」か「桐の箱」かという話題になった。
竹内先生は紙の箱に入れているとのことだった。箱にはそれほどこだわっていないご様子だった。

ふと思った。
もし私が竹内先生のとんぼ玉を買ったとしても、いつか私が死んだときには、家族は私の持ち物を処分するときにこのとんぼ玉を捨ててしまうだろう。とんぼ玉なんて興味のある人以外には単なるガラスのアクセサリーにしか見えない。有名な作家の作品で高価なものだなんて思わない。
紙の箱だときっとゴミ箱行きになる。

でも・・・
もし桐に箱に入っていたとしたら、“よく分からないが、もしかしたら価値のあるものかも・・・” とゴミ箱に入れるのを思いとどまるかもしれない。
誰かに見せて、ちゃんと欲しい人の手に渡るかもしれない。
そうなれば桐の箱には大いに意味がある。
桐の箱は、箱の中に入っているものに価値があることを暗に伝える。せっかくの作家さんの一点ものの貴重な作品がゴミとならず、ちゃんと後世に残っていく可能性を広げる。

私の家には宝石やブランド品のような誰が見ても高価なものこそ無いが、海外で買ってきた日本では売っていない珍しいものなら幾つか有る。
例えばイランで買ってきたミナカリの時計。(ぜひ”ミナカリ”で画像検索!)
現地では普通に売られている数千円の時計なので鑑定しても価値はないだろう。でも日本では欲しくても売っていない。私のような一部のマニアはめちゃくちゃ欲しがるだろう。

最近思う。
このご時世だ。コロナに感染して自宅療養中に急変して死亡なんてことが1週間後に我が身に起きるかもしれない。
そうしたら、このミナカリの時計は家族が処分してしまうだろう。
残念ながら私の家族にこういうものに興味のある者がいないのだ。変わった模様の時計だなとは思うだろうが、その価値(一部のマニアはきっと欲しがる)に気付いてもらえないままゴミとなるだろう。

たいていの物は、ある人にとっては宝物でも他人にとっては不要なものだ。
本人が死んだら、大半のものは残った家族にとっては無価値なもの(ゴミ)だ。
とくに故人のコレクションなんて明らかに価値がありそうなもの以外、全く興味もなく要らないだろう。
でもこれは決して本当のゴミではない。
“捨てるくらいなら譲ってくれ!!”と思う人は世の中には大勢いるだろうし、ちゃんと欲しい人の手に渡れば、持ち主も、譲り受けた人も、物も、その物を作った人もみんながハッピー、WIN WIN WIN WIN だ。
芸術的に価値のあるものや歴史的に価値のあるものは、決してゴミとしてしまうことなく、その価値が分かる人のもとにちゃんと渡って残ってほしいものだ。

そのためには・・・

まず、“これは価値があるかも” “欲しい人がいるかも” と気付いてもらわないといけない。
結局は、持ち主が分かるようにしておくしかないのだろうが、「桐の箱」のような誰にでも一目で「これは価値があります」とわかる仕掛けは有効なのかもしれない。

もしかしたら桐の箱は、紙の箱より結果的にゴミを減らす エコな箱なのかもしれない+

イスラム建築マニア