私にとって、ごく一部の小説は危険な娯楽だ。
高校生の時、「新世界より」(貴志祐介著)を読んだとき、余りの面白さに頁を読む手が止まらなかった。日曜日の昼頃から読み始めたが、上下巻で全1100頁を超えており、徹夜となった。学校には一応出席したが、眠気と余韻で何も頭に入らなかった。その後も脳が自動的に小説の内容を反芻し続けてしまうため、取るもの手につかずの状態が暫く続いた。
このような経験はその後の人生でも数回あり、自分の心に深く、深く付き刺さるような小説は無防備に読んではならない、という教訓を得た。学業に支障が出るのはまだいいが、仕事に集中できないのは困る。そのため、最近はそのような小説はあえて避けて暮らしている。私が普段小説を購入する際の選定基準は、「面白そう」だが、「深く刺さりすぎであろう」ものということになる。このような基準で小説を選定していると、自然と、深く自分に刺さりそうな小説の候補が生活の脇に積み上げられることになる。同じような仕分け作業をしている人は私の他にもいそうな気がするが、この作業を特定する名称は聞いたことがない。いわゆる積読と似ている部分はあるが、かなり意味合いが異なる。
普段はこの候補に入った小説は読まないわけだが、十分な時間があり、読破に耐えられるような精神状態が整った際には、この候補から小説を読むようにしている。直近ではお盆に「アルジャーノンに花束を」(ダニエル・キイス著)を読んだ。予想通り、危険な名作だった。