弁護士のエッセイ

2012年07月01日
禅(ぜん)的発想のすすめ

いろいろ思うところあって、仏教、特に禅について書かれた本を時々読みます。

宗教評論家の「ひろさちや」さんの本が分かりやすく、おもしろく、しかも私が思うに、本質的なことが書かれています。
仏教、宗教といえば「何事にも感謝しなさい」、「まじめにしなさい」とまさしく「説教」そのものであり、堅苦しいものというイメージがあります。つまり、立派な人になりましょう、と言われているようで、道徳と同じ意味と考えてしまいがちです。実際、そのように説く方もおられるようです。
しかし、ひろさちやさんの説明によれば、宗教はあまねく「人間は弱い存在」ということを真正面から肯定して、あるがままに生きましょう、という教えのようです。
私はなるほどと大いに納得し、そうであるからこそ、むしろ、今この場で仕事にも熱中できるような気がします。後付けでしょうが、自分のモノの考え方にもピッタリだと思っています。

ここでは、ひろさちやさんの多くの著作をいろいろ読んで覚えたこと、感じたことを書いています。
単なる読書感想文のようなものであり、誤解も多々あるかと思いますが、ご容赦ください。

禅といえば、座禅をして無我の境地に至る修行。迷いが少しでもあれば「喝!」と叩かれそうです。
しかし、御釈迦様の説いた仏教は、在家信者のためのもの、禅もまたしかり、だそうです。つまり、寺で座禅を組んで修行しなくても、日々の暮らしの中で、あるがままに暮らすことそのものが修行のようです。しかも、ここでいう修行は決して、立派な人になるための修行ではないとのこと。物事をあるがままにみて、余計なことを考えず、自由にのびのび生きることの修行だそうです。

修業とは禁欲と表裏一体のようにも思われます。つまり、全ての欲望を捨て去り、修行僧のような生活を送らなければならないかのように思われます。なかなかに過酷です。その境地になれない自分を責めてしまいそうです。
しかし、これにも禅は一つの指針を与えてくれます。「滴水滴凍(てきすいてきとう)」という言葉があるそうです。人間は弱い存在だから、怒りに震えることも時にある、しかし、それをいつまでも引きずらないほうがいい、怒りの感情にとらわれの身となってしまう。つまり自由とは程遠い。もちろん怒るのは仕方がないし、怒りの感情を抑えたり、なくしてしまうのは普通の人間には無理。そこで、怒りの感情は瞬間冷凍して、それを手放してしまえばいいというのです。私の理解・言葉で書いていますが、ひろさんの受け売りです。

「莫妄想(まくもうそう)」もいい言葉です。どうにもならない他人の悪口が頭に渦巻いていたり、過去の自分の行いをひたすら後悔したり、まだ訪れない未来のことが不安で不安で仕方がなかったり。そんなこと考えても(妄想しても)仕方がない、何も変わらないというのです。それよりは、今やるべきこと、やりたいことをひたすら熱中してやるのが幸せだというのです。「喫茶去(きっさこ)」。ただひたすらお茶をいただきなさい、というのも同じ意味のようです。ちなみに私は最近、茶道(裏千家)を習っています。茶道は禅の教えとつながりがあるようで、作法の勉強もさることながら、茶道のそんな考え方が気に入っています。

禅の教えのポイントは、即今・当処・自己(そっこん・とうしょ・じこ)にあるそうです。これもひろさんの受け売りです。
つまりは、今、自分自身が、この場でことにあたりましょう、ということです。何事も自分自身が体験してみないと分からないし、自分が体験して楽しかったり、苦労したり、工夫したりするからこそ楽しい。他人と比べてどうとかいうことは一切関係なし。それも今自分がなすべきことをやるからこそ幸せである、というのです。刹那(せつな)主義とはちょっと違うように思います。
私が思い当たるのは、どんなにやるべきことが山積していても、瞬間瞬間でできることは一つだけということです。物事の時間コスト、優先順位を考えることは仕事のうえではもちろん必要です。それでも今瞬間瞬間ではやれることは一つだけ。その瞬間はそのことだけに熱中してやるのがいいですよ、ということだと理解しています。

「一得一失(いっとくいっしつ)」も時々思い出す言葉です。禅宗で語り継がれるエピソードで「二僧捲簾」(にそうけんれん)というのがあるそうです。あるお坊さんが弟子二人に、簾を捲き上げてごらん、と言った。弟子はそれぞれ捲き上げた。それをみてそのお坊さんは「一得一失」(1人は良くて1人は悪い)と言った、というのです。どちらが良いか、何が良いかの言及は一切なし。これについて、ひろさんは、これは一種の反語表現と解釈されています。つまり、どっちが良くてどっちが悪い、ということはないんだよ、という教えと理解されています。
生きる上で、仕事をする上で、どっちの道に進むか判断すべき場面があります。その場面でも、そのとき、そのとき自分で判断して(判断が付かなければ、サイコロを振って)、選択したら、あとは振り向かない。神(仏?)のみぞ知る、ということのようです。
どっちの道にいっても良いといえば良いし、悪いといえば悪い。その判断が良かったか悪かったかは考え方次第。その時点でベストと思って決めたなら、それが良かったか悪かったかは後にならないと分からない。というより後になっても分からないし、それでよい。あるがまま受け入れて今を生きましょう。こういうことは良くあります。

もちろん私たちが日々扱う法律は、人間が工夫して作った人間社会での基準、ルールです。それは仏さんの目からみれば、相対的なものでしょう。時代や国家によって何が正義かということは大いに変わるからです。
しかし、利害ある(それ自体が仏さんからみれば相対的なもののはず)人間どおしが集まって社会を運営していく以上、人間社会のルールは、一つのけじめとして必要なものでしょう。ルールがないのは無政府状態です。
法は道徳そのものではなく、人間どおしの争いを予防したり、解決したりするために最低限必要な手段。法律の世界に限って言えば、それが相対的な世界であるからこそ、正しい、正しくないということはありうる。
そのルールの中でスキル、発想を磨いて仕事に取り組む。
私はそんなネガティブでありつつも、ポジティブな考えを持って、仏さんのシナリオで?たまたま与えられた弁護士という仕事に熱中しているつもりです。

かのスティーブ・ジョブズ氏も禅に興味があったと聞いたことがあります。
もちろん、ビジネスのために禅を学ぶ、という発想自体は、喫茶去(きっさこ)の教えからは外れているように思います。
今を楽しく生きようとして、将来の夢を描くこと自体は悪くないのではないでしょうか。この辺は難しいですね。

弁護士 嶋津 裕介