執筆者:昭和芸能デスク
2005年07月15日

この度ご縁があって運良く採用となり、今年4月25日から勤務しています。主に池野由香里先生がされる事件の事務を担当しています。どうぞよろしくお願いします。
自己紹介の意味も含め、今回はソウルへ留学したときの体験を少しお話したいと思います。

先頃は「ヨン様」「ジウ姫」など韓国スターでにぎわっていますが、そんな韓流ブームがやってくる少し前、日韓ワールドカップで盛り上がる2002年の6月にソウルへ留学しました。今でこそメディアに登場する頻度も高い韓国ですが、当時はまだ、「近くて遠い」国だったので、語学留学なら同じアジアでも、急成長中の中国にしたらどうかという周囲の意見が強い頃でした。
しかも、それまで一度も韓国へ行ったことがなく、知っているのは挨拶程度の単語だけという無謀な状態でした。ハングルも読めないままの見切り発車でしたが、周りの人たちの助けで、なんとか手続を終えることができ、ヨン様も撮影で訪れたという延世大学で1年半のカリキュラムを履修することになりました。

ソウルに到着した日から、私のハチャメチな留学生活は始まりました。
まず、仁川国際空港に到着後、下宿先に連絡をしました。仁川国際空港は、2001年の開港でまだ新しく、外側から見ると飛行機の形をしています。関西国際空港に倣って造られたそうで、雰囲気もかなり似ています。ですからさほど外国にやってきたという感はなく、心配性な私でも安心感を得られ、話に聞いていたほどキムチの匂いもしませんでした。
1年半お世話になった先は善良なご夫婦がされている下宿で、一度下見に行ってきたのですが、お二人とも韓国人で、もちろん日本語は通じません。前もって『空港に着きました』という韓国語をカタカナで書き取っておいて電話をしました。〔ここで豆知識。韓国では、受話器をはずしたまま置いてあることがあります。それは、前の人がまだ料金が残っているので、置いてくれているものです。そのまま番号を押して通話ができますので、その際は利用してみてください〕

下宿のおばさんの話していることは聞き取れないので、こちらの用件だけ伝え、ひとまず空港バスに乗ることにしました。仁川空港と市街間は、まだ電車はありません。交通手段は車のみです。
ここでも事前に準備したメモを片手に、運転手さんにも、隣の乗客にも『私はここで降りたいので教えてください』と伝えて乗り込みました。ちなみに空港バスも市内バスも前払い制です。
下見の際、当日おばさんがバス停まで迎えに来てくれることになっていたので、かなり安心していました。ところが無事目的地で降車した後、おばさんは待てども一向に姿が見えません。だんだん日は暮れるし、荷物もどんどん重く感じて心細くなりました。

仕方がないので、もう一度電話をしようと公衆電話を探しました。日本でも最近めっきり減りましたが、ソウルでもやはり携帯電話の時代。どこへ行っても見つからず、うろうろ歩き回ってようやくコンビニの前で発見しました。そこで久しぶりにテレフォンカードを買って電話をしました。〔ここでまたまた豆知識。韓国ではテレフォンカードは裏側を向けて挿し込む式になっています〕もうこの頃には、だいぶん不安感が募ってきて、挿し込みが反対というだけで、慌てふためきましたが、コンビニの店員さんに必死で訴えかけて、やっと電話ができました。今度は電話口に下宿のおじさんが出て話してくれるのですが、さっぱり言っていることがわからず、本当に途方に暮れてしまいました。

そこで、これは自力で下宿までたどり着くしかないと、再びコンビニの店員さんのところに駆け寄って、今度は住所メモを見せて『ココニイキタイデス』と伝えました。
すると、店員さんは、しばらく考えていたかと思ったら、おもむろに制服の上着を脱いで、私の荷物を両手にがばっと持ってすたすた歩き始めたのです。荷物を持ち去る悪い人には見えなかったので、その人の後にトコトコついていきました。しかし、心の半分では、この人が猛スピードで走り出したら、追いつけないかもしれないと思いながら、自分ののんきさが招いたことなので、仕方ありません。しばらくついていくと、なんとそこは交番でした。やっぱり信じる者は救われます。すっかり迷子になった幼稚園児に戻ったようで、思い出しても恥ずかしい限りですが…。

その人は事情を話してくれたらしく、しばらく座って待っていると下宿のおじさんが迎えに来てくれました。その交番は下宿のすぐ近くでした。あとで話を聞いてみると、どうやらおばさんとは行き違いだったようで、下宿に行くとものすごく申し訳なさそうな顔でおばさんが待っていてくれました。
こんなとんもない出発でしたが、おかげで留学初日から韓国の情に触れたのでした。