執筆者:気まぐれシェフ
2019年02月15日

2月といえば1年で一番気温の低い月だ。
天気予報では毎週のように、大寒波がやってきます、今日の大阪の最高気温は7度しかありません!防寒対策をしっかりと!と注意を呼びかけている。
でも7度なんてそんなに寒いかなあ。昔はもっともっと寒かった。

子供の頃、冬の日課は氷の分厚さチェックから始まった。
毎朝起きてすぐに庭に飛び出し、小さな池に張った氷を割って家族に見せる。今日はこんなに分厚いで~~!と早朝からテンションあがりまくりである。

学校へ行く服装は、セーターとスカートとハイソックスにスニーカー。上着は、一年中一緒のペラペラの制服だけである。
タイツも毛糸のパンツも、それに手を出したら負け組という小学生にありがちな意味不明なプライドが邪魔をしてどんなに寒い日も一度も履くことはなかった。何よりも、ダウンコートなんて暖かい服はあの頃身近に売られていなかったんじゃないだろうか。あんなモコモコの服を着るのは北極に行った和泉雅子さんかスキーヤーくらいだったはずである。たぶん。

登校中は霜バシラを探しては踏んづけまわり、水たまりの氷を割りながら進むので、なかなか前進しなかった。霜バシラは植え込みのようなフカフカした柔らかい土のところにできるので、どうしても道路脇にふらふらと寄っていってしまうのだ。
寒くなるとカブトムシやトンボのような捕獲欲を刺激する虫がいなくなる代わりに、冬は冬でちゃんと遊ぶものを自然が用意してくれているのである。

捕獲欲が刺激されることはないが、ミノムシだけはよく遊ばせてもらった。
葉の落ちた枝にぶらんぶらんといくつもぶら下がっているので、軽くつついてご機嫌をうかがう。運がいいとたまにひょこっと顔を出してくれるのだ。あまり強くつつくと糸がプッツリ切れてしまうので、その加減が結構難しい。年季のいる技である。
枯れ葉の上をどこぞへと移動している途中に出くわすと、こっちじゃなくてあっちの木にしたほがいいんちゃう、仲間おったし、と有無を言わさず運んでやるといういらぬおせっかいをやいたりもした。最近見かけたことがないが、ミノムシは今もちゃんといるのだろうか。

そんなこんなでようやっと学校に到着。
学校は職員室と保健室に扇風機とストーブがあるだけで、教室は冷暖房無しだった。授業中じっとしているとさすがの能天気な私でも寒くなってくる。窓が二重になっているわけでもないし、ひざ掛けがあるわけでもない。水道も温水は出ないし、体育の時間は半袖シャツにブルマだった。ひたすら寒くておかげ様で手も足もしもやけだらけだった。

しもやけの指を掻き掻き家に帰ると、お次は宿題になっている縄跳びの練習である。
二重跳びとはやぶさを目標回数になるまで飛び続けるのだが、厳寒の中、勢いのついたロープが素足に当たったときの痛いこと痛いこと。血が吹き出たかと思うくらいに凄まじい痛みなのである。
寒い冬も家の中に閉じこもらせないようにという先生たちの思惑から出されている宿題なのだろうが、せめて、長ズボンを履いて飛ぶと痛くないよ、という知恵もセットで授けてほしかった。思いつかなかった私も私であるが。

暖房意欲が薄いという点では、うちの中も学校とあまり変わらず、こたつ一台と灯油ストーブが2台あるだけだった。
エアコンはあったがお盆とお正月くらいしか稼働許可が出なかったのでそんなもの無いも同然である。ストーブの前はワンコに占拠されているので、はんてんを羽織ってこたつに潜り込み、ストーブの上に載せたお餅が膨らむのを待ちながら一番甘いのに当たるまでミカンを食べ続けた。食べすぎて手のひらも足の裏も真っ黄色だった。
寝るときはずっしりと重くて硬い真綿の布団なので、入ったときがこれまたまあよく冷えていることこのうえない。肩の周りも布団の硬さのために隙間ができて冷気が入り込みしばらくの間歯ががちがちとなる。寒いーと叫ぶと父か母がやってきて肩の周りをぎゅうっと抑えて隙間をつぶしてくれた。足元には湯たんぽがあったがそれでは足りず、湯たんぽ2号としてワンコを家族で取り合った。

しかしこうやって書き出していくと、もしかして暖かい服や暖房器具が無かったから昔のほうが寒かったと思い込んでいるのかもと一瞬弱気になりかけたのだが、でも毎日氷も霜バシラもできていたし、雪も1年に数回は積もっていたから、やっぱり昔のほうが寒かったのだ。

あの頃は、冬って寒いもの、しもやけができるもの、そんなものだと思っていた。
今の時代に子供だったら暖かい過ごし方がいくらでもできたのだけれど、それでもやっぱりあの頃にあの寒い子供時代が過ごせてよかったなぁ楽しかったなぁとなぜだか思うのである。

天気予報が寒さを伝えるたび、そんなことを思う2月です。