2016年08月01日

わが栄光綜合法律事務所が北船場の真ん中、伏見町3丁目に移転してきたのは2014年9月でした。以来船場の街(まち)が大変気に入った私は、いろいろな文献を読み、町中を歩いて写真を撮るなどして船場について勉強しました。
その勉強や見聞の一端を、覚書風に、またエッセイ風にまとめたのが本欄の私の記事です。
今回はその第3回となりますが、実はここでの内容は本来第1回の原稿となるはずのものでした。ところが、NHKの朝の連続ドラマ、「マッサン」と「あさが来た」が世間の耳目を集め、これらの物語やその登場人物が少なからず船場と関係があったため、このタイミングにそのことを書いておきたいと思い、過去2回分はその関連記事となりました。

ここからあらためて、船場の歴史、そして、その初回として船場の誕生の話をさせていただきます。
船場は1600年頃、大坂城の城下町として誕生しました。そこで、まず大坂城の誕生の話から始めます。

大阪城がある場所の地政学的意味
古代の大阪湾は生駒山脈の山麓まで海が入り込んでいました。そして、その中に「上町台地」と呼ばれる南から北に向かって細長く伸びる半島がありました。
この半島の西は大阪湾、東は大阪湾のなかの湾、河内湾と呼ばれていました。その後何百年にわたって、ここへ北東から流れ込む淀川や南東から流れ込む旧大和川が運んでくる土砂によって上町台地の東側の河内湾は次第に浅くなっていきました。河内湾はやがて河内湖になり、その後も低湿地帯化、そして陸地化へと進んでいきました。
上町台地の西側の大阪湾(難波海)にも同様に三角州の堆積が進行し、陸地に近いところは次第に浅くなり、葦が茂る湿地となっていきました。
その中央に背骨のように存在する上町台地、その中でもとくに細長く伸びた北端部分、つまり大阪城があった付近は戦略的に大変重要な意味をもっていました。
この地の北側は海、後に川であり、その西は大阪湾を経て、西国、四国に通じ、外国にもつながっていました。また、河内湾を隔てた南東には飛鳥京や平城京があり、北東には長岡京、平安京がありました。
交通の要所としての重要な港もありました。古代の「難波津」は遣隋使・遣唐使・外国使節等の往来の発着港に、中世にかけての「渡辺津」は法皇や貴族などが四天王寺・住吉神社・高野山・熊野詣などに出向く際の発着港にそれぞれなっていました。後に京都伏見との間を往来する三十国船の発着港「八軒家浜船着場」もこの辺りです。

大坂本願寺と寺内町
この戦略的な土地に着目したのは豊臣秀吉が最初ではありません。
古くは、西暦650年頃、孝徳天皇が前期難波宮(長柄豊崎宮)を造営しました。また、730年頃、聖武天皇が後期難波宮を造営しました。
しかし、後記難波宮が784年桓武天皇によって長岡京へ遷都された後は、長い間この地は歴史の表舞台となることはありませんでした。
1489年、この地に浄土真宗本願寺が移ってきました。第8代宗主で中興の祖と言われた蓮如がこの地に浄土真宗の大坂御坊を建立、1533年、これが「大坂本願寺」(石山本願寺)として、浄土真宗の本山寺院となりました。
大坂本願寺はその後次第に寺格も高まり、勢力も拡大、一大寺内町を形成するに至りました。
8町(約900m)四方の土地を占有し、寺の周囲には堀が巡らされ、その廻りを門徒たちの住む6つの寺内町が囲み、さらにその寺内町を取り込む形で堀が巡らされていました。寺内町の人口は数万人と思われます。

織田信長の野望、石山合戦
当時やはり勢力を拡大しつつあった織田信長もこの地に着目していました。信長はこの地をほかのどこよりも戦略性の高い、魅力的で究竟な土地であると認識していました。
そのため、大坂本願寺に何かと圧力をかけ、この地を信長に献上するよう要求しましたが、本願寺側はその要求を拒否し、そのために、1570年から1580年までのいわゆる「石山合戦」が戦われました。
1580年、大坂本願寺はついに織田信長に抗しきれず、この地を明け渡すことになり、宗主の顕如は紀伊国の鷺森に退去しました。
顕如の息子、教如はその後も大坂本願寺に留まって抵抗したすえ、やはり大坂を退去しましたが、その際大坂本願寺に火を放ちました。2日1夜にわたり燃え続け、この地は灰燼に帰しました。
その2年後に本能寺の変が起こり、織田信長は死去することになります。

豊臣秀吉による大坂城築城と「船場」の誕生
信長の意思を継いだのが豊臣秀吉です。秀吉は自分が信長の後継者として天下人になること、また信長のビジョンや戦略を踏襲することを心に決めていました。大坂の地を当時の日本の政治・経済の中心地としていく構想を描いていたようです。
秀吉は本能寺の変のあと、「おおがえし」で明智光秀を討った翌年の1583年、早くも大坂城の築城と城下町の建設を開始しました。
城下町の建設は、まず城を取り巻く武家屋敷を建設し、次に町人が居住し、商売を行なうエリア、また寺町の形成などが計画的に進められました。
大坂城の外堀にあたる「惣構堀」(そうがまえぼり)が掘削されました。1594に完成した南北方向の東横堀川はその一部です。東西方向では上町台地を横断する深さ11m、幅20mの堀が掘削されましたが、これは大阪冬の陣のあと和睦の条件として埋められました。
1598年、三ノ丸に大名たちが妻子らとともに住む大規模な大名屋敷が建設されました(秀頼の安泰を願っての措置)。その際、三の丸に居住していた町人や寺院を移転させるため、その移転先を作る必要がありました。
ここで、やっと「船場」の登場です。
大坂城の西、上町台地を西へ下った先にあった湿地帯を埋め立てて新しく土地を造成しました。そこが船場地区、町人や寺院の移転先、受け皿となったのです。三重の堀と運河を開削して掘り出された大量の土砂が湿地帯の埋め立てに使われました。そして、1597年から1601年にかけて、「大坂町中(ちょうちゅう)屋敷替」と言う大規模な移転が行われました。
排水をよくするため、下水設備にも力を入れ、世界的にも進んだ施設と言われる「背割下水」(「太閤下水」とも言います)も建設されました。その一部は今も残っています。
インフラの整備と平行して秀吉は各地から商人の誘致も行いました。堺、平野、京都伏見などから強制的に商人を移住させました。自ら進出してくる商人も多数おりました。
阿波座、土佐堀、安土町、淡路町などの地名はいずれもその名残です。淀屋常安も山城から出てきて材木商で成功し、後に豪商と言われる地位にまでのし上がった一人です。
これらの大事業の最中、1598年に秀吉はその道半ばで死去します。

豊臣の滅亡と徳川幕府による大坂の繁栄
秀吉亡きあと、豊臣と徳川が争いましたが、1614年10月の「冬の陣」と翌1615年4月の「夏の陣」で豊臣は滅亡し、秀吉の城下町は(船場を含み)灰燼に帰しました。
大坂の町の再建は徳川幕府に受け継がれることになりました。
徳川幕府もこの地を西国の要として重視し、大坂に将軍直属の城代(じょうだい)として家康の外孫、松平忠明を置きました。
豊臣滅亡の15年後、徳川政権によって市街地の復興や整備が行われ、堀割の開削によって水運の利便性も高まりました。豊臣期末期に着手された「南堀川」(「道頓堀」)も完成し、その後数年以内に「江戸堀川」、「天満堀川」、「阿波座堀川」、「西横堀川」、「京町堀」、「長堀」も完成しました。
「町割り」(蔵屋敷、同業者街、寺町など町の仕分け)が行われ、「船場」は商業地としてそのアイデンティティを持つことになりました。地子(じし、土地税)が免除され、経済活動が急速に活性化しました。
船場周辺には船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋などが次々に誕生し、経済、流通の中心地となり栄え始め、やがて日本有数の商業地、物流の集積地に発展しました。順慶町あたりから島之内、道頓堀にかけては歓楽街として栄えました。
600を越える町と、最盛期には人口40万人を擁する大都市、「天下の台所」となりました。
また「水の都」としての独特の景観が展開されることにもなりました。
なお、「船場」の名前の由来については諸説ありますが、前述のとおり、この地の北側に大川があり、古来より「船着き場」として栄えたことから、それが短縮されたものとする説が有力です。

夏の陣で焼失した大坂城は徳川幕府(秀忠期)によって再建されました。
しかし、10年もかけた大工事だったにもかかわらず、天守閣はわずか36年間存続しただけで火災によって焼失し、その後は昭和6年に再築されるまで、大阪人は大阪城の天守閣を仰ぎ見ることはできませんでした。
市中の治安・訴訟取扱いなどは町奉行所が担いましたが、天満、北船場、南船場の三郷にはそれぞれに惣年寄、各町に町年寄という役付きの町人を置き、一定程度の自治も行われました。
北船場、淡路町通に「北組惣会所址」の碑が残っています。

なお、「石山合戦」に関しては、和田竜著の小説「村上海賊の娘」が、また徳川に政権が移ったあとの大坂の建設に関しては、片山洋一著の小説「大坂誕生」が大いに参考になります。また、楽しめる読み物でもあります。