2022年12月01日

1 船場の街区と道路
船場の街区は基本的に40間(72m)四方の正方形で、街路は碁盤目状に直交しています。京都市の街路よりさらに端正な碁盤目が遠くまで見通せます。
道路としては、東西方向を「通(とおり)」と称し、計23本あります。当初の幅員は4.3間(7.7m)に設定されていました。
南北方向は「筋(すじ)」と称し、計13本あります。当初は補助的な街路とされたために幅員は3.3間(6m)と、「通(とおり)」に比べて少し狭くなっています。
町割りは基本的に「通」に沿った「両側町」。つまり、通りを挟んで向き合っている町が同じ名称となる区割りです。東横堀川から堺筋までが1丁目、三休橋筋までが2丁目、御堂筋までが3丁目、西横堀川までが4丁目となっています。ただし、西横堀筋は全て南北方向の横町割りで、渡辺筋や御霊筋にも横町割りが見られます。
町名の「町」はすべて「まち」と読みます。

現在船場の中を走る主要道路には、南北には御堂筋、堺筋、三休橋筋、東西には土佐堀通、本町通、長堀通などがあります。
主要道路以外は1車線、順次逆方向になっている一方通行です。
また、ビルの建て替えのときなど、建物部分を後退させ、歩道を拡幅するような措置が今でも取られています。

2 土佐堀通
土佐堀川の南岸を東西に走る幹線の一つ。船場はこの通りから南に広がっていきます。
昔はこの通りに土佐堀南岸線という市電が走っていましたが、1968年に廃止になりました。
この路線と交差したり連続したりする多くの市電が市内縦横に走っていました。
1963年、京阪本線が天満橋駅から淀屋橋駅まで延伸され、また、葭屋橋西詰めから西へは地下を走っています。また、2008年10月、新天満駅から中之島駅までも延伸、開業されました。今後さらに、九条、西九条、桜島方面への延伸も計画されています。
土佐堀通から南にかけては住友銀行本店をはじめ「住友村」企業のほか、多くの金融関係の会社が目に付くエリアです。
淀屋橋交差点の南東及び南西角にあったビルは現在建て替え中です。おそらく高層の立派なビルが登場し、この界隈の近景も遠景もかなり変わることでしょう。

3 御堂筋
船場内の南北の主要道路と言えば、まず「御堂筋」が挙げられます。歌謡曲にも歌われ、大阪人以外でも知っている有名な道路です。
「天下の名市長」、「大阪の大恩人」と謳われた関一(せきはじめ)第7代大阪市長の功績です。
関一氏は大正13年(1924)に大阪市長に就任し、在任中の昭和10年(1935)に病没しました。関淳一元市長の祖父にあたります。

大正末期から昭和初期にかけての大阪は、人口、面積、工業生産額のすべてで東京市を上回る全国一の都市となり、「大大阪」と称されました。この黄金期にあって、関市長は市域拡張や、御堂筋・地下鉄の建設、大阪港の拡充、中央卸売市場の開設、日本初の自治体立大学(現大阪市立大学)の創設などを構想。その功績は広範囲に及びます。
御堂筋は、江戸時代には「淀屋橋筋」と呼ばれる幅員約6mの狭い道路で、周囲には民家や商店が密集していました。これを7倍以上の道幅(43.6m)に拡幅し、梅田から難波への約4㎞間を直線で結んだのです。工事が始まったとき、「大阪のど真ん中に飛行場でも造る気か?」と多くの人にいぶかられたと言います。
昭和12年(1937)に完成。文字通り「大阪の顔」となり、大阪の発展や景観を支える「都市基盤の要」となりました。

「御堂筋」と名付けられたのは、本願寺津村別院(北御堂)が提供した境内地に道路を通したことで、難波別院(南御堂)と北御堂の双方が沿道に面するようになったことによります。それ以前は、北御堂と南御堂を結ぶ短い通りだけが「御堂筋」と呼ばれていました。
沿道の建物には、竣工当時は31mの高さ制限がありましたが、1955年に50m(後方60m)に緩和されました。
また、2007年には画期的な南行き一方通行に変わりました。

大阪城築城400年を経過した1983年から「御堂筋パレード」が始まりました。2008年から「御堂筋kappo」、2009年から「御堂筋イルミネーション」、歩道には彫刻が展示されるようになりました。
昨今は、ビル1階のショールーム・カフェ、「御堂筋ギャラリー」、「大阪クラシック」などで沿道企業ロビーの活用などを通して、より賑わいのある公共空間が広がりつつあります。

4 堺筋
昭和12年(1937)に御堂筋が拡幅・整備されるまでは、「堺筋」が大阪の主役でした。近代大阪のメイン・ストリートは堺筋だったのです。とりわけ北浜から本町にかけての堺筋一帯は「モダン都市・大阪」の中心地でした。大正から昭和にかけて、通りには市電が走り、三越百貨店、白木屋、松阪屋がありました。
また、周辺には、綿業会館、鹿児島銀行、武田道修町ビル、青山ビル、伏見ビル、三井住友銀行、新井ビル、北浜レトロビル、生駒ビルヂング等々、今も昔の姿で残る大阪を代表する洋風近代建築が数多くありました。
今も、「徒歩で楽しむ大阪近代建築めぐり」に絶好のエリアとなっています。
「堺筋」の名がつけられたのは、この道路が「堺」へと通じる紀州街道の起点部分にあたっていたからです。

堺筋が砂糖の取引で活況を呈した時代がありました。
明治24年(1891)、砂糖を扱う株仲間が定められ、それまで伏見町にいた唐物商人も堺筋に移るなどして「堺筋仲間」が成立。江戸末期には店舗数が200戸余りに増えました。
輸入砂糖、和砂糖、黒砂糖、白砂糖などを扱い、「堺筋」が砂糖の隠語として通用した時代もありました。

5 三休橋筋
御堂筋と堺筋の真ん中あたりに三休橋筋があります。御堂筋、堺筋よりは狭いもののそれ以外の筋よりは広い道路です。大正の終わり頃、御堂筋の拡幅と同時期に道幅3間から7間に拡幅されました。歩道も2.5m(並木があるところは1.5m)から現在は広いところで4.35m。車は1車線の北行き一方通行です。
名前の由来は、船場の南端長堀川に架けられていたのが「三休橋」だったからです。

三休橋筋「プロムナード」
大阪市は三休橋筋の歩道を「プロムナード(散歩道)」として整備する計画を進めました。船場の商業組合やボランティア団体も協力しながら展開されています。
平成26年(2014)、大阪ガスや作家堺屋太一氏などの尽力で55基のガス灯が設置されました。大阪市内でガス灯があるのはこの通りだけです。上品でおしゃれなプロムナードになりました。
街路樹をトウカエデから涼やかな栴檀の木に植え替えました。栴檀の木は落葉高木、春淡紫色の上品で小さな五弁花をつけます。

電線と電柱の地中化
三休橋筋には電柱や電線がほとんど目につきません。これも船場の町作りの一環です。
町中に多くの電柱が立ち電線が張り巡らされている景色はその町のグレードの点から感心できません。
船場が現在及び将来において豊かで心落ち着く町であるために、区域全体の「電線の地中化」が一日も早く達成されることを期待しています。
電線地中化工事の計画がある、現在施工中、または完成している道路は以下のとおりです。

三球橋筋  かなりの部分で施工済みであり、55基のガス灯はその価値をさらに高めるものです。
伏見町通  御堂筋から三休橋筋までの約230mは施工完了のようです。
日本生命本館、適塾周辺
三井住友銀行大阪本店・大阪俱楽部周辺

6 高麗橋通
高麗橋は、古代難波宮の時代に高麗使節を迎えた迎賓館がその名前の由来です。
ここは東海道57次の起点ともなっていました。橋の西詰には「矢蔵屋敷」がありました。
多くの旅人が行き交うとともに、鴻池、岩城枡屋、三井越後屋といった両替商や呉服商が並ぶブランドストリートで、日本最大の繁華街でもありました。日本料理の本吉兆が現在もこの通りにあります。

7 伏見町通
秀吉は、大坂の城下町を活性化するため、加賀の斉藤九郎右衛門を伏見町に住まわせ、唐物(舶来物)を取り扱わせました。これがきっかけで伏見町に唐物問屋が集中するようになりました。
江戸時代、オランダ貿易や清貿易は長崎を拠点に行われましたが、主要輸入品の生糸や薬種、砂糖の国内での卸売販売は大坂の唐物問屋が独占的に扱ったとされています。
その後薬種商人が道修町へ、砂糖商人が堺筋に移転し、そのあとの伏見町は、「隠居町」で静かな通りとなったようです。
今も見物客が絶えない芝川ビルには、芝蘭社家政学園があり、昭和初期、女学校を出た船場のいとさん(お嬢さん)たちが通っていました。

8 道修町通
薬の町として広く知られています。現物商いで活性化していた時代は、町中がぷんと匂いがしてごった返し、ほこりがもうもうとしていました。そして店先に品物が積まれ、荷馬車やリヤカーがところ狭しと行き交っていました。今の落ち着いた武田薬品のビルなどを見ていると、今昔の感をひとしお感じます。

少彦名神社
道修町のシンボル的存在で、「神農さん」とも言われます。中国の薬祖神「神農氏」と日本の薬祖神「少彦名命」の両方をお祀りしています。
毎年11月22・23日、道修町あげての「神農祭」が繰り広げられます。これは大阪での1年最後の祭りなので「大阪のとめ祭り」とも言われます。
隣接する「くすりの道修町資料館」には、江戸、明治時代の薬の商いに関する記録などの文書約3万3千点が所蔵されています。
谷崎潤一郎「春琴抄」の舞台でもあります。平成12年(2000)、神社入り口に「春琴抄の碑」が、三島祐一氏らによって建てられました。

9 本町通
江戸時代より船場のほぼ中央を東西に貫通し、大坂三郷のうち北組と南組の境界をなしていました。
商社や卸売り問屋などが集中するオフィス街を貫いています。

10 中央大通
中央大通の船場区間は1970年(万博の年)に完成しました。唐物町通と北久太郎町通とその間の街区が道路用地に充てられ、唐物町通が東行き、北久太郎町通が西行きの平面道路に拡幅されました。
船場センタービルは繊維問屋など立ち退き店舗の移転先となりました。「船場の長城」といわれる延べ17万㎡、長さ1㎞、1号館から10号館のビルの巨大ビルで、中には繊維問屋のほか、ブランド店、婦人服、雑貨など800もの店が雑多に並んでいます。卸問屋でありながら小売りも兼ねる店舗もあります。
ビルの上を高架道路大阪市営地下鉄中央線が走る珍しい景色です。

11 南船場
南船場とは通常順慶町通以南を指します。
順慶町通は、戦国大名筒井順慶の屋敷があった所で、新町(花街)と心斎橋、堺筋を繋ぎ、連日連夜の夜店は大坂の名所となっていました。
南船場の中で、心斎橋筋が縦断する西寄りの3丁目は心斎橋北商店街、丼池筋商店街など旧来の衣料店や衣料問屋が主体の町ですが、御堂筋や長堀通に面しところには高級ブランド点が立ち並び、レストランやギャラリーなども増えています。
その西南船場4丁目は、(元々は繊維問屋街でしたが)最近高感度なショッピングエリアとしてファッション誌などによく登場するようになりました。新しい建築が話題を集め、デザイナーなどが集まりだし、1990年代後半からは、心斎橋やアメリカ村などから店舗が移転、高級衣料店やカフェ、レストランが集まり始めました。

12 長堀通
戦後しばらくまで大阪水運の要の一つとして活躍し続けた長堀川でしたが、昭和35年(1960)、自動車インフラ強化を目的とした都市計画のために埋め立てられました。現在の長堀通は長堀川の埋め立てと同時に敷設されたものです。
ここに地下街として建設されたのが「クリスタ長堀」。全長730mで、Osaka Metroの長堀橋駅、心斎橋駅、四ツ橋駅に跨がっており、単体地下街面積としては日本最大とされています。
グルメやファッション、雑貨に占い、美容関連等、出店しているショップのバリエーションも豊富です。ラーメン店もさまざまあります。

長堀通が「船場」の南端で、これより南は「島之内」と呼ばれるエリアです。昔は遊郭や茶屋が建ち並んでいた繁華街です。

13 太閤下水(背割下水)
これは「道路」ではありませんが、船場の地には、豊臣秀吉が大阪城を築城した際に造られた石積みの下水溝が張り巡らされています。大坂は淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿な土地だったため、道路整備と同時に町屋から出る下水の排水設備を整える必要があったのです。大坂城に向かう東西道を軸に碁盤の目に区切られ、その道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝が掘られました。これを「背割下水」または太閤秀吉にちなんで「太閤下水」と言います。広いところで巾約3.6m、高さ2m。開渠でしたが、道路を横断する場所では石蓋が設けられました。
この下水に挟まれた約40間(72m)四方の区画が船場の町割りの基本となっていたのです。
この下水は現在も約20kmにわたり現役で使用されており、中央区農人橋1丁目3-3付近に、地上に設置したのぞき窓から自由に中を見られる所があります。