2003年08月01日

昨今は江戸時代が一つのブームになっているそうだ。
江戸時代の風俗や習慣を正確に伝えようとするテレビ番組等もあり、チャンバラ時代劇とは違った角度から、新鮮な驚きをもって迎えられている。
私も、ブリティッシュ・コロンビア州立大学のロースクールに留学しているときに江戸時代について興味をもった。
それは、修士論文を書くにあたって、英国やカナダと日本の制度の比較をするために江戸時代の法律制度を調べてみたところ、思ったよりシステムが整っていたことに驚いたからである。

江戸時代といえば「封建制度」という言葉が浮かんでくるが、広辞苑によれば、「封建制度」とは「領主が家臣に封土を給与し、代わりに軍役の義務を課する主従関係を中核とする。」となっている。
英語では‘feudal system’といい、Black ‘s Law Dictionaryによると「ヨーロッパで11世紀から13世紀に一般的に採用された制度で、西ローマ帝国崩壊後にゲルマン諸国で発達した」とあり、「封建主義」あたる‘feudalism’は「家臣と領主の従属的な関係を基礎とした制度で、家臣は領主に忠誠を誓い、領主は家臣に土地を与える。」となっている。
結局、土地を仲介にした人間関係を中心とする制度ということになるが、時代的に日本とヨーロッパでは大きく違っているし、発達の仕方も相当に異なるように思われる(日本では封建主義の後に来る絶対主義の時代はなかったのではないかと思う。)。
そのため、民事訴訟制度の発達の仕方をみても、両者を対照して考えることが困難であるようだ。

江戸時代にも、有名な大岡越前による「三方一両損」の話があるように、民事訴訟手続きがあり、これを「公事」と言っていた。
弁護士がいたかというと、そのような資格の者はいなかったが、地方から公事に来るための専用の宿があり、その宿を公事宿といい、その主人が書面の作成の代行等を行っており、弁護士的役目をしていた。
ただし、公事宿は玉石混交であり、詐欺師のような公事宿もあったらしい。
これに対して、有名な京都の二条陣屋は残っている記録からすれば良好なものであったようである。
民事訴訟法については、1672年に策定された「公事方御定書」があり、刑事訴訟手続きである「吟味筋」とは一応独立した民事訴訟手続きである「出入筋」が定められていた。
江戸時代の民事訴訟は4つに類型化されており、「領所(土地に関する紛争)」、「公事(金銭に関する紛争)」、「仲間事(共同行為に関する紛争・たとえば数人の大工が家を建てた場合に代金の分配方法をめぐる紛争)」、及び特別の社会的身分(親子関係や親方・弟子関係等)に基づく紛争である。
金銭紛争としての公事については、金公事と本公事があり、金公事は書面により金銭債権の証明できる場合であり迅速に判決がなされた。
金公事からわかるように、証拠による判決がなされたようであり、その点では近代的手続きと言ってよいと思われる。
ただ、判決である「裁許」は例外的な場合であり、多くは和解である「内済」により事件が終了した。
しかし、判決がなされることもあり、その場合には判決書きが当事者にわたされた。
強制執行手続きはなかったようであるが、破産に該当する「逃散」という手続きもあったようである。

このように、わが国は、現在の民事訴訟制度の萌芽ともいうべき制度を江戸時代において持っていたのであり、そこには市民社会の芽というものが見られるように思う。
民事訴訟とは異なるが、鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵は諸外国に先駆けて教育刑主義(犯罪者に教育を施して、社会に対する脅威ではなくするという考え方)を取り入れた人足寄場(一種の刑務所)を作っており、これも経済的自立を促すものとして市民社会的背景が看取できるのではないかと思う。

現在の民事訴訟法は、このような伝統を完全に断ち切って、ドイツ法を模範として制定されたものであり、我々の記憶から江戸時代の民事訴訟制度というものは失われている。
しかし、江戸時代を市民社会への過渡期と捉えれば、その民事訴訟制度を見直してみていいのではないかと思う。
テレビ番組や小説でも、詳しく取り上げてみればおもしろいのではないだろうか。