2006年03月01日

最近、「武士道」の本がよく売れているようである。
武士道を著した新渡戸稲造はカナダのブリティシュ・コロンビア州で死亡したが、私の通っていたブリティシュ・コロンビア大学には新渡戸記念庭園という立派な日本庭園もあり、新渡戸稲造には馴染みがあった。その意味では武士には関心を持っており、たまたまではあるが、江戸時代の武士の本を買って読んでみた。1冊は「江戸300年『普通の武士』はこう生きた」(八幡和郎、臼井喜法著 ベスト新書)という本で平均的な武士像を提示し、武士道に対する誤解をシニカルな表現で正している。もう1冊はベストセラー「国家の品格」(藤原正彦著 新潮新書)である。これが武士の本といえるかどうかについては反論もあろうが、著者は武士道に重きをおいているので、そう分類してみた。
江戸時代というのは、非常に興味深い時代であり、世界史的に異彩をはなっているように思われる。封建社会、身分制社会でありながら、商業においては近代資本主義類似のシステムが見られるし、それに従った民事訴訟制度も存在した。生産手段こそ完全な私有とはいえなかったとしても、生産物は私有されて流通して、冨の蓄積を容易にしていた。
このような江戸時代を特徴づける武士または武士道とはいかなる存在だったのか。
「国家の品格」の中では、論理を中心とした欧米的世界観の対極にあるものとして、侘びさび、もののあわれを会得した武士道的世界観が賞賛されている。そして、日本の進むべき指針として武士道への回帰による尊敬される国になるべきだとしている。
一方、「江戸300年」では、武士を要約して、200年前のご先祖の功績による「遺族年金」をもらっているだけで、行政官や軍人としての知識もなかったとしている。武士道とは、下層階級から尊敬されるためのファッションに近いものとし、日本人が世界で好印象を持たれるために、このファッション性を真似るべきだとしている。
このように、この2冊の本では武士道に対して全く異なる理解をしているが、両者の違いは、理念としての武士と一般の生活者としての武士との違いによるものであろう。

ところで、武士論というのは多く語られているようであるが、町人論というのはあまり語られていないように思う。武士への対比として町人がクローズアップされるのは当然であろう。これについて、武士が誇り高く、高潔で、町人が卑屈で下劣だという決め付け方をしている人はあまりいないようであるし、いるとすれば単に偏見に過ぎないであろう。たとえば、荒俣宏氏著の「男に生まれて」という小説では、江戸末期の様々な実在の商人(三井財閥の三野村利佐衛門など)がでてくるが、これらの人々は今で言えば一流の経営者である。明治維新の後に円滑に資本主義社会への移行ができ、欧米列強の植民地化を免れたのは、このような一流経営者としての町人の力が大きいと思うし、もし、武士道が町人道の対比において語られるとすれば、それは誤っているというべきであろう。
結局、現在取り上げられる武士道というのは、実際に存在した武士が行動規範として実践したものではなく、日本人が理想とする人格をいうものに過ぎないのではないだろうか。