2009年12月01日

ときどき宗教のことを考える。少し深く勉強したのは仏教、とくに「般若心経」である。「勉強」という言葉は宗教にはふさわしくないかもしれない。「勉強」とは普通の思考回路、つまり合理的・論理的思考によって学ぶことであるが、宗教へのアプローチはそれと少し異なる。しかし、特別な環境か契機があって抵抗なく信仰生活に入った人以外はやはり宗教は勉強によって学ぶほかない。そうなると宗教とはなかなか理解しづらいものである。
キリスト教や仏教はある程度は理解できる。キリスト教は唯一絶対の神を明快に(但し宗教的論理で)説明する。仏教は哲学に近く、個人が解脱を得るための実践の道である。聖書や仏典、またそれらの解説書があふれるほど普及し、一般人が説教や法話を聞く機会も少なくない。
それにひきかえ、わかっているようでわからないのが、「日本の神々」や「神道」である。

正月になると多くの(おそらく1000万人以上の)日本人が神社に初詣でし神殿に参拝する。しかし、ほとんどの人はいったい誰に(何に)拝礼しているのか、何を信仰しているのか、神とはどういう存在なのか、などについてはほとんど意識することなく、単に風習に従っているだけのように見える。皮肉な言い方をすれば、自分の利益や幸福をお願いしているだけのようにも見える。
子どもの宮参りや七五三、地鎮祭、厄除け、合格祈願、家庭内の神棚、これらも同様である。
しかし、そのような参拝やお祭りをすることによって何かよいことをしたような満足感が残られることもまた事実である。

伊勢神宮には天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られている。この神は「古事記」や「日本書紀」に登場する神である。その祖先にあたるいざなぎのみこと、いざなみのみことから始まる神話には数百柱(はしらは神の単位)の神々が登場する。神話であるから荒唐無稽の話かもしれない(古事記上巻のストーリーなどは荒唐無稽としか言いようがない)。したがって、これらの神々の実在性はそれを信仰する人にしか認められない。「お伊勢参り」は江戸時代以前から広範に行われているが、お参りする人の多くは天照大神の実在性を信じ、社殿の奥に人間の姿に近い天照大神が鎮座しているものと何となく思っている。

次に、楠木正成、徳川家康、乃木希典といった歴史上の実在の人物が神として神社に祀られている。楠木正成は湊川神社の、徳川家康は日光東照宮の、乃木希典は乃木神社のそれぞれ祭神である。日本各地にある「天神さん」(天満宮)も実在の人物である菅原道真を祀る神社である。過去歴代の天皇も「現人神(あらひとがみ)」、つまり人の姿になってこの世に現れた神とされている(日本国憲法で天皇の神格が否定されたが)。
これらの神々もおそらく100柱を超えるだろう。
靖国神社に祀られる246万柱の軍人らの英霊も神とされるから、これを加えると100柱どころではない。
これらの人物が過去に実在したことは疑うべくもないが、この人たちがなぜ、またいつ神になったのか、誰が決定したのか、憲法で神になったりそうでなくなったりするのか。また、これら以外の気高く優れた人が神にならなかったのはなぜか、神になると何が変わるのか、等々について私は寡聞にして知らない。
日光東照宮で多くの観光客が丁重に拝礼する姿を見ると何となく違和感、奇妙な思いにかられる。家康を一大政治家としては評価するが、その精神性において神に並ぶほど気高く偉大な存在であったとは思わない。

第3に、「八百万(やおよろず)の神」、つまり「自然神」、「アニミズム」における神々が日本の方々の山や森や湖に無数におわすそうだ。富士山も神だし、洞窟、巨岩、大木、泉、滝など、自然界の様々の事物、あるいはすべての事物にそれぞれ神が宿っているという。鏡・剣・玉などもご神体になる。
たしかに樹齢数百年の大木の下に立つと、荘厳、神秘で心身が引き締まる思いにかられ、これが霊感というものかと実感することもある。
しかし、疑問も湧く。これらはそれ自体が神なのだろうか(そうであれば山火事でご神木が燃えれば神が燃えたことになる)、そうではなく、神の居場所または神の息吹が及ぶところではないのだろうか。あるいは、そういうところだと人間が主観的に作り出すイマジネーションそのものではないのだろうか。

いずれにしても、日本の神々はこのように多様であり、その数は無限である。
日本全国には8万あるいは10万の神社がある。日本人の多くは事あるごとに神社に参詣し、そこに鎮座しているご祭神、ご神体に向かって拝礼し、または自然の状態に置かれている岩や滝、またご来光に向かって拝礼する。そして何事かを祈念する。
ところが、あらためて「日本の神」とはいったいどういう存在か、「神道」とはどういう教義か、と聞かれると、なかなか説明しにくいし、説明されることも少ない。現に、キリスト教や仏教と異なり、言語で統一的に説明され、定着した神道の教義というものは存在しないようである。

私なりに総括すると、人間の知恵・知識・力では理解できない、また御することができないことが宇宙に無限にあることを知った人間が、人知を超越した力や宇宙の運行を支配している「何か」がどこかに存在するに違いないと考え、「神」とは、その結果、人間が観念的に創り出したイメージまたは象徴なのではないか。
しかし、「何か」という認識しか持てないのが正直なところなのであるから、それ以上に絞り込んだり、具体的に表現するのはむしろ「まゆつば」ということになる。
日本人は「無神論者」であると言われることがあるが、そうではない。無神論者とは神など存在しないと信じる人のことである。日本人のほとんどは神の存在を何となく(無意識的に)、しかし体の奥深くで信じ、恐れている。ただ一神教のごとくそれを特定することを潔しとせず、むしろ謙虚に、霊感を感じるすべてのものに対し敬虔、畏敬、信仰の念を抱くのである。

これが日本人の感性であり、世界中でもっとも正直で、知性的で、しなやかな宗教観であると思う。
そして、私自身を含めて、実は、日本人の身近には日本の神様が寄り添い、多くの日本人は信仰心の厚い生活をしているのではないかと思っている。
これに加えて、仏教の教えにしたがい、生老病死など人間の四苦八苦から解脱する知恵を会得できれば、人間社会は平和を保って永遠に存続し、人間は安穏に生き、安穏に死ぬことができるはずである。