2015年07月01日

さっき大阪弁護士会のある先輩弁護士から、ちょっとした用事で電話がかかってきました。
ものの30秒で電話は終わりました。
私が「それはあ~で、こうなんですよ~」などと要らんことを言い出しても、「そうですね。じゃ、そういうことで、よろしく。」で終わりです。
用件だけというのもさびしいですが、全く無駄がありません。
というより、その用件を片付けるには、それ以上しゃべっても、あとは無駄でしかないという感じです。
やっぱり、できる弁護士は違うな、という感じがしました。
伝えたい趣旨、内容を必要かつ十分な言葉で伝え、その用件に決着を付ける感じです。

それは言葉が単に短い、少ないというのではありません。むしろ情報量は充実しています。
ところが、横道に入ったり、同じところでぐるぐる回ったりは決してしないので、ダラダラとよくしゃべるという感じが全然しない。

私は最近、弁護士会からの委嘱で司法修習生の指導弁護士を担当していますが、弁護士の仕事の仕方を司法修習生に説明するときによく、医者の仕事と比較して話します。
腕のいい医者は、患者の状態を客観的に把握して、考えうる中から最適の手段を選択して、実行し、病気を治すはず。
医療の現場をあまり知らないので、ドラマでみたり、小説で読んだりするくらいのイメージ(あるいはブラックジャックのイメージ)ですが、腕のいい外科医はきっとメスの使い方もうまく、切るべきところを切って、患部を探り出し、鮮やかな手さばきで、その患部を摘出してしまうはずです。

私だけのイメージかもしれませんが、私たち弁護士はメスの代わりに言葉を使います。

複雑に入り組んでいそうな事実関係を目の前にして、一方で法律の条文や判例、学説を頭にインプットしつつ、言葉とロジックで、事実関係を整理していきます。
私の頭の中では、メスを振るっているイメージです。そうして、争点となっている事実関係を「腑分け」して、訴訟の勝敗を決めるべき争点がどこにあるのかを突き止めようとします。争いのない事実関係に法律を当てはめれば、どのような結論が出るか、といった「法的評価」が争点のときもあります。
ともあれ、私たち弁護士は依頼者からのヒアリングをただ単によく聞く、というのではなく、しかるべき質問をしつつ、議論を整理し、患部、すなわち争点がどこにあるのかを突き止めようとします。その争点を解決するのに、訴訟をするのが適当なのか、交渉をするのが適当なのか、時には放っておいた方がいいのかを考えるのも、医者が、患者の体力などを考えながら、手術のリスクとも想定しながら、手段を選択していくのと似ているように思います。

ところで、外科医のメスの切れ味が良くないと、切るべきところがいつまで経っても切れないということがあるのではないでしょうか。
そもそも、切るべき箇所を間違えているということにもなりかねません。

これと同じで、できる弁護士は、言葉も明瞭かつ簡潔で、問題解決のためのメスの切れ味が鋭いので(しかもそのメスの使い方が理に適っているので)、スッ、スッと核心に迫っていきます。
その結果、メスを入れる回数も適切であり、必要以上に切ったりしないということがあるように思います。だから、必要以上に言葉を費やしたりしないということになります。

もちろん治すのが難しい病気があるように、問題を解決する(しかも、依頼者に有利な解決を導く)のが難しい事案というのは必ずあります。
そのようなときも、弁護士は言葉のメスを以て格闘するよりほかありません。感情の部分をよくよく理解して進めないと、言葉のメスの使い方を誤ってしまいかねないという場面もあります。

弁護士の仕事は勝った負けたの勝負という面もありますが、それは病気を治す(問題を解決する)ための一つの手法のように思います。
弁護士の道具である言葉を、手術のメスに例えてみましたが、最近私は、弁護士の仕事の成果は、目には見えないけど、ある意味、モノづくりなのかな、と思うときがあります。
いずれも専門的な技術が問われる職業という共通点があるのではないでしょうか。