国際的少数派の日本的経営

その1 会社は株主と従業員のもの

最近、「会社は誰のものか」という議論が盛んです。
ライブドア・ニッポン放送事件の際、堀江社長が「会社は株主のもの」と発言したことに対し、ニッポン放送の役員や社員はもちろん、少なからぬ人がこれに違和感や反発を覚えました。
日本では、「会社は株主のもの」と言い切る人は少なく、「会社は株主と従業員のもの」と考えるのが主流です。従業員のほかに顧客や地域社会などを含めた「ステークホルダー(利害関係者)共有論」というのもあります。
これに反し、欧米では、当然のごとく「会社は株主のもの」と考えます。「株主至上主義」などと呼ばれます。そして、日本を「株主軽視の国」と言って非難します。
しかし、私は「会社は株主と従業員のもの」と考える日本的経営を支持します。
株主にもいろいろあるので一概には言えませんが、多くの株主(一般個人株主、買収ファンドなど)は、ある日株式を購入して会社に登場し、その株式を売却していつでも退場する、という存在です。ピーター・ドラッガーも「株主は企業とかかわりを持つ多くの利害当事者の一人にすぎない。企業が永続的存在なのに対し、株主は一時的な存在である。」と言っています。
このような株主と異なり、多くの従業員は、自分と家族の生計と尊厳のために会社に人生を賭けています。その結果、株主のごとくいつでも会社から退場できる立場にありません。
株主の多くは会社の永続性、安定性よりも、目先の「株主利益」の向上(高配当、株価の上昇、短期的な業績向上等)を求める利己主義者ですが、従業員は、会社の永続性を意識し、期待しながら、株主を含めたステークホルダー全体の利益を支えている存在と言えます。
従って、株主と従業員の立場と役割を公平に尊重し、「会社は株主と従業員のもの」と理解することには妥当性があり、かつ、今やグローバルな理念となっているCSR(企業の社会的責任)にもつながっていきます。

ただ問題は、このような日本的経営が現在では国際的に少数派であり、グローバル化した経済社会でどこまで維持できるかということです。

その2 社外取締役

日本で社外取締役を本気で採用している会社は少数です。
また、採用している会社のほとんどは株主構成や取引において国際的な展開を行っている企業です(そのような企業はグローバル基準に従うほかないのです)。
そうでない企業は、社外取締役を採用していても、外部に対する体裁やポーズ、著名人採用による宣伝、大所高所からのお知恵拝借等の効果を狙う場合がほとんどです。
関連会社や大口取引先から送り込まれた社外取締役などは「社外」と言うにも値しません。
これに対し、欧米では、取締役会の主要メンバーは社外取締役であり(アメリカ等では法律で定められています)、重要な経営判断はほとんど社外取締役によって行われます。また、単に社外人であればよいのではなく、経営者からの独立性を保持できる人材であることも重視されます。
つまり、独立性の高い社外取締役(独立取締役)が経営をチェックするのでなければ会社は適正に経営できない、と考えるのです。
しかし、私はここでも日本的経営つまり社外取締役に過度に依存しない経営を支持します。
欧米の場合、社外取締役の主な任務は株主の利益代表です。株主により大きな利益をもたらすために経営者を監視するのです。
日本では、前述のとおり、会社のステークホルダーの中で株主を特別扱いしません。従業員をはじめ、ステークホルダーの利益にバランスを取ることを正義と考えています。従って、株主の利益代表であったり、株主の利己主義の具現者となるような社外取締役は歓迎しません。
かえって、内部の事情や情報に疎い社外取締役に対し諸々レクチャーし、その理解を得ながら経営に当たることは非効率を招き、近時とくに要請されるスピーディな経営判断を阻害しかねません。
日本を代表する優秀企業、例えば、トヨタ自動車や松下電器産業等が社外取締役を導入しないのもこのような理由によります。
但し、独立した(遠慮なく経営トップに意見を言える)社外取締役がいないと、経営トップが間違った経営判断をしたり、コンプライアンス精神に悖ることがあった場合、そのチェックや歯止めがきかないというリスクが増すのも事実です。その結果、西武鉄道のように、会社を危殆に陥れることもあり得ます。
しかし、日本では監査役制度があります。監査役に独立性のある人材を得て、かつその権限と責任を強化することで社外取締役に期待される機能をカバーすることは可能です(現状はまだまだ不十分ですが)。

ただ問題は、このような日本的経営が現在では国際的に少数派であり、グローバル化した経済社会でどこまで維持できるかということです。