産婦人科医無罪事件

 高橋 英伸

2008年09月01日

福島地方裁判所は、2004年に帝王切開手術を受けた女性が死亡した事件につき、業務上過失致死及び医師法違反(異状死届出義務違反)の罪に問われた産婦人科医師に対し、2008年8月20日、無罪を言い渡しました。以下、業務上過失致死罪について、報道で発表された事実に基づき解説します。

本件で、医師は、妊婦の胎盤が子宮口を覆う状態(前置胎盤)であったため帝王切開をしました。ところが、帝王切開による開腹後、通常出産後に自然に剥がれ落ちる胎盤が、子宮に強固に癒着しはがれない状態(癒着胎盤)であることが分かりました。この癒着胎盤は非常に稀に起こるものであるとのことであり、稀ゆえに、医療の現場での対処法が必ずしも確立されていませんでした。医師は、偶然、このような症例に遭遇して胎盤の剥離を選択したところ大量の出血が始まり、やむをえず子宮全体の摘出に切り替えましたが、妊婦は心肺停止状態に陥り亡くなりました。
検察は、剥離による出血が始まった時点で剥離を中止し子宮を摘出すべきであったのにそれをしなかった点に医師の過失があるとして、業務上過失致死罪を問うべく医師を起訴しました。

刑事裁判で有罪となるためには、刑法に定められた行為と結果(被害)があり、その間に因果関係(行為なければ結果無しという関係)が認定される必要があります。さらに、本件のような過失犯が有罪となるためには、行為者が、結果の発生を予見していたのにそれを回避するための一般的な回避方法を取らなかったこと(注意義務違反といいます)が認定される必要があります。これは、逆に言えば、結果を予見できない場合や、結果を予見できても通常回避できない場合には罪に問わないということです。結果を予見できるか否か、また通常の回避手段が何であるかは、その立場にある通常の能力を持った者を基準とします。本件の場合、産婦人科医として通常の能力を備えた者を基準にそれらの点が判断されたものと思います。

本件では、医師は一般的な回避方法を取ったので過失はなく無罪という判決になりました。
具体的には、裁判所は、医師は胎盤の剥離により出血が始まった時点で、妊婦が大量出血して死に至ることは予見可能であったとし、さらに死を回避できる可能性もあったと認定しました。しかし、裁判所は、この状況で胎盤の剥離を中止し子宮摘出へ移行することは標準的な医療措置(一般的な回避方法)ではないとして検察の主張を退け、本件で医師が取った措置である胎盤の剥離の継続が標準的な医療措置であったと認定しました。
裁判所が検察の主張を退けたのは、検察の証拠として文献と権威ある医師の証言があるものの、検察の主張に沿う臨床症例がなかったことが大きな理由のようです。他方、裁判所は医師の措置を妥当とする複数の医師の証言は信用できるとしました。

先ほど、結果を予見できない場合や、結果を予見できても通常回避できない場合には罪に問わないという刑法の建前にふれましたが、この事件では、医師界から、警察・検察が結果を予見できなかったり回避できなくても結果が生じればそれだけで罪に問おうとしているという強い反発が起き、また、この事件が産科医減少に拍車をかけたとして注目されていました。
判決後、検察は、裁判所が指摘した臨床症例を提示できるか検討したようですが、それが困難であるとして控訴をやめる方向で調整しているようです。
病院が間違って消毒薬を点滴したような場合は明らかに注意義務違反があると考えられるので医療関係者が罪に問われるべきは当然と思いますが、報道による限り、本件がただちに注意義務違反となるかについては疑問が残るところで、判決は一応妥当なものと評価されているようです。

本件により、警察・検察による医療事故の捜査能力に限界があることが示されました。この事件を受けて、厚生労働省は、第三者の立場で死因を究明する「医療安全調査委員会(仮称)」の設置に向けて動きはじめているとのことです。この制度は、同委員会が、医療事故の可能性がある場合、医療機関から届け出を受けて専門家からなるチームで調査を行い、標準的な医療から著しく逸脱した医療措置による事故であると認められる場合に、同委員会が警察に通知し、そこから刑事手続が始まるというもののようです。