厚生労働省元局長無罪判決

 高橋 英伸

2010年01月15日

<ポイント>
◆ 検察官の描くストーリーに沿うように供述調書は作られがち
◆ 密室での取調べをやめ、取調べの録音・録画をすべき

大阪地方裁判所は、2010年9月10日、村木厚子元厚生労働省局長に対して無罪判決を言い渡しました。元局長の嫌疑は、課長時代に部下と共謀して、心身障害者団体としての実体がない組織に対し郵便料金割引制度の適用を認める虚偽の公的証明書を発行したというものでした。罪名は虚偽有印公文書作成・同行使でした。

犯罪の捜査段階では、検察官は、裁判所に有罪判決をしてもらうために必要十分な証拠を集めようとします。十分な証拠が集まっていないと判断すれば起訴しません。この事件でも、検察官は当然、有罪判決を得るのに十分な証拠を得たと判断して起訴したということになります。
しかし、訴訟が進行するにつれ、検察官の証拠は非常に不十分なものであったことが明らかになりました。
証拠は大別して供述証拠と物的証拠に分かれます。
供述証拠は、人の供述そのものが証拠です。刑事訴訟手続上は多くの場合は調書という形で出てきます。供述者が検察官の前で供述したものを記した調書が検察官面前調書、警察官の前で供述したものを記した調書を司法警察員面前調書といいます。
物的証拠は供述証拠以外の証拠で、例えば凶器、指紋、被害物品、防犯ビデオの映像、偽造された書類などです。
また、証拠の提出方法にはルールがあり、検察官が証拠として裁判所に取調べを請求した調書に対して被告人側が取り調べに同意しなければ、一部の例外を除き、調書の取調べの前にまず裁判所で供述者の証人尋問を行う必要があります。尋問を行ったうえで、証人尋問時より取調時の供述の方が特に信用できることが証明された場合に調書の取調べが認められます。
証言によって検察官が証明したい事実が証明できれば検察官として調書の取調べを請求する必要はなくなるといえます。しかし、法廷で証人が供述調書と異なる証言をした場合、検察官としては裁判所に調書を取り調べてもらおうとします。

この事件では、村木元局長が虚偽の証明書を作るよう部下に指示をしたのかどうかが争点になっていました。村木元局長が指示したことを検察官が証明しなければ有罪判決とはなりません。指示に関する物的証拠や書類がないため、検察官は元部下らの供述証拠で村木元局長による指示の事実を立証しようとしました。部下らの調書には元局長が指示をしたと書いてあったとのことです。これに対して、村木元局長側はそれらの調書に異議を述べました。そこで、調書では指示を受けたと供述していた部下などの証人尋問が行われたのです。
ところが、部下らは相次いで調書の記載は事実に反し、局長は指示をしていないと証言しました。供述を覆した証人は11人中8人にのぼったということです。そこで、検察官としては何としても指示を受けたという記載のある調書を調べてもらう必要が生じました。
しかし、証人らが口々に検察官の描いたストーリーに沿って調書が作られたと証言したため、裁判所は調書を信用できないとして、取調べの請求のあった43通の調書のうち元局長の指示があったという供述のある調書を含む34通の取調べを認めませんでした。 元局長が指示をしたことを直接証明できる証拠がなくなったということになります。そこで、この時点で元局長の無罪は確実視されるにいたりました。

さてこの事件では、単に供述証拠を中心に犯罪を立証しようとすることの危うさのみならず、問題ある取調方法や調書がクローズアップされました。
検察官面前調書や司法警察員面前調書は、供述者の供述を記載した書面ではありますが、この文面を作成するのは供述者ではありません。取調官である検察官や警察官が取り調べの後に聞き取ったストーリーをまとめて担当係官に口頭で伝えてワープロ打ちしてもらい、これを供述者に読み聞かせて内容に間違いがないかを確認し、署名・押印(指印)させて作るのです。
取調べの都度、供述者が話したまま記載するものではありません。取調官が納得したストーリーを供述者が話した時に取調官の解釈で作られます。取調官の立場としては、基本的には、有罪にはならない方向の供述者の話を調書にする必要はありません。調書には犯罪事実を証明するうえで重要な内容が記載されるわけですが、一般人には必ずしもそのようなことは分かりません。頭の切れる検察官から「こういうことだろ」と言われればおおよそ間違いないと思って「はい」と答えてしまうものです。

こういった事情から、取調べとその結果である調書の作成は取り調べる側のペースで進みます。供述者が何度違うと言ってもそのことは調書にならず、取調官は、自分が考えるストーリーを繰り返し供述者に言わせようとします。それが真実であればともかく、真実ではなかった場合は非常に問題といえます。身体拘束や起訴の権限を持った取調官に迫られ続けてどれだけの人が耐えられるでしょうか。
時に、取調官は「あんた以外の者はみんな○○と言っているぞ」、「早く自白した方がそれだけ早く外に出られるというものだ」、「自白した方が刑が軽くなって執行猶予がつくぞ」などと言って、早く供述者が自分の描くストーリーを話し出すように事を運ぼうとすることがあります。こういう取調官の話はもちろん調書には書かれません。

この事件では、まず虚偽の証明書を作成した部下が検察のストーリーに屈して調書を作成し、検察はそれを根拠に元局長の周辺の人物からストーリーに沿う供述を引き出し、最後に元局長に迫っていったが、元局長には完全否定されてしまったようです。
検察官のストーリーに沿う調書を作ってしまった供述者には公務員が多数いたようです。基本的には教養もあり犯罪とは無縁な人々が、真実とは異なる調書を作成させられてしまうところにも、密室で取調べが行われることと、そこで調書が作られることのおそろしさが現れていると思います。
捜査段階での供述や取調べの手続きを事後的にチェックできるような取調方法、具体的には取調べの録画や録音が必要なのではないでしょうか。