執筆者:昭和芸能デスク
2011年08月15日

おばさんの呼び声に誘われて、宝くじを人生3度目くらいに買いました。
サマージャンボではありません。復興宝くじです。

3月11日の震災後も東北沿岸部では、震度1や2の揺れが頻繁に起こっているようですが、このところの関西でも奈良や和歌山を震源地とする地震がたまにあり、ひやっとすることがあります。
先日も仕事中に『揺れてる~』と叫んだら、単なる気のせいでした。(疲れているのか、年のせいなのか…)
それとも揺れに敏感になりすぎているのか、どくっ、どくっと脈打つ自分の血流が地震かのような錯覚を起こすこともあるくらいです。
東北からほど遠い場所に住んでいる私がこんなに過敏になっているのだから、さぞかし東北地方の被災者の方たちは不安な日々を過ごしているだろうと思います。

結婚して仙台に住んでいた友人が、この夏大阪に帰省してきていて、地震にあった時のことを少し聞きました。
友人は2人の子どもを連れ、全線運休していた仙台空港の一部開通を待って7月に帰ってきていました。
搭乗した飛行機はちょうど雨がはげしく降る中を飛んでいたので、機内でも相当の揺れに遭い、親子共々へとへとになって帰ってきたとのことでしたが、今は子どもたちもおじいちゃん、おばあちゃんと楽しく過ごしているようで、ほっと胸をなでおろしていました。
携帯電話で撮ったという、棚などが倒れ、物が散乱した部屋の様子を見せてもらいました。
大変怖い思いをしたとのことで、地震後しばらくは家族で小学校に避難していたそうです。
幸い家族はみな無事で、仙台でも比較的海から遠いところに住んでいたので、家そのものが倒壊したり津波で流されたということはなかったようですが、この先仙台に戻るかどうか思案中ということでした。
私自身東北へは観光旅行で1度松島や角館を訪れたくらいで特に縁がないので、被災した人から直接話を聞くのは初めてで、改めて地震の怖さを感じました。

こうして話を聞くと、何か私でもできることがあればと考えるのですが、何か支援をと思っても、なかなか社会人でいるとボランティア活動も難しいものです。
阪神淡路大震災の時は、地震後半年以上経ってからですが、短期の派遣で住民票整理の仕事をしていました。ばらばらになってしまった住民票の用紙を、大きな作業台に地区ごとに振り分けて置いていく作業です。
積み重なった用紙はまた別の人がまとめて次の作業をしていくといった、各グループ数人で分担しての流れ作業でした。
帰宅後『ボランティアじゃなくていいのかなあ。』とつぶやく私に母が『個人情報を扱うものやから、ちゃんと身元が分かる人にお金を払ってしてもらうほうが、やってもらう方も安心やと思うよ』と話してくれ、ボランティア気運が高まる中、お金をもらってすることに少々引け目を感じていた私でしたが、そういうものかなあと納得して以後働くことができました。

あの当時、街はどんな様子だったかと思い出してみました。
早く作業が終わったある日、肉まんを食べに元町の中華街へ立ち寄ったことがあります。
当時の中華街は活気を取り戻しつつある頃で、お店もだいぶ開いて営業していましたが、まだ買い物客は私たちのような感じの地元の人たちで、観光客はあまりいなかったように記憶しています。
作業場所へ通う途中の道路も、まだアスファルトが裂けたままのところがあったり、割れ目から水道管が見えて水が滲み出ていたり、ずれた段差がそのままだったりで、車もほとんど走っておらず街全体に元気がありませんでした。
それでも今おしゃれな街として復興を遂げた神戸を思うと、東北も復興する日が来るし、それが1日も早く来ることを祈らずにはいられません。

と、いろいろなことを考えながら、復興宝くじを買ったのでした。(当たりますように。)