執筆者:気まぐれシェフ
2010年06月15日

突然たまらなく大掃除をしたくなるときがある。
思いたったら吉日、なのでさっそく取り掛かる。

まず服の整理。すっかり忘れていた服がクローゼットの奥から顔を出す。あっ、こんなの見っけ♪ということでとりあえず試着。これに合うインナーは・・・アウターは…なんてことで1人ファッションショーが開催される運びとなる。数年着ていない服でも意外な組み合わせで生き返ることもあり、捨てるか捨てぬか、作業は遅々として進まない。靴もしかり。いちいち履き心地はどんなだっけと足を通してしまう。本も、パラパラっとめくっていたはずがいつの間にやら熟読して数時間が経過。服に靴に本の山。大掃除を始めたはずが、かえってグチャグチャでもはや収拾のつかぬまま日が暮れていく。

このままじゃ寝るスペースもない。お尻に火が付いてようやく本気モードに切り替わる。
いったんエンジンがかかるとその勢いはとどまることを知らない。あふれ出るアドレナリンでハイテンションの脳には、目につくものすべてが無用に見えてくる。自分のものだけではない、人のものまで気になりだす。周囲の人間のもっとも恐れる瞬間である。家じゅうをチェックし、ゴミ袋に私基準の無用なものをポイポイ放り込んでいく。しかし敵もさるもの。私が新たな獲物を探してゴミ袋から離れたすきにこっそりテリトリーに持ち帰っているようで、捨てたはずのものがゾンビのように蘇っている。蘇り率が最も高いのは私の服で、そ知らぬ顔で着ている母親にはもう慣れてきた。
そんな攻防戦のすえにスッキリした部屋を見渡したときの爽快感は、お風呂上がりのビールにも匹敵する。発作が治まって冷静さを取り戻したあと、なんであんなものまで捨てちゃったんだよーしまったぁぁぁと叫ぶこともままあるが、おおむね満足な仕上がりなので良しとしよう。

しかしただ一つ、どうしても捨てられないものがある。ピアノだ。
近所迷惑だからと弾くこともできず、場所を取るだけの存在となった古いピアノこそ、私以外の家族からすれば無用のものに見えるらしく、危うく処分されるところを私の部屋に引き取った。それ以来、私の狭い狭い部屋で文字通り幅をきかせている。

幼い頃から通い続けたピアノ教室は、みんなで楽しくお勉強という雰囲気ではなく、和音を聴き取ったり即興で作曲したりと能力を競い合うスパルタ教室だった。普通のピアノ曲が弾きたいと先生に訴えると、それは別の教室に通うか家庭教師をつけて習ってくださいとむげに断られた。どうやら指導者やピアニストの育成コースだったようだ。なるほど、ずいぶん年上ばかりでみんな熱心だったわけだ。なんでそんなところに入れられたのか謎なのだが、何の野望もない私には苦行でしかなく、とても厳しい先生に叱られっぱなしだった。なんとかサボれないものかと仮病を使ってみるが、そこは子供、母親にはお見通しらしく、泣こうがふてくされようが聞く耳持たず教室に強制連行されていた。そんな時の母親はこの世の誰よりも恐ろしく、もしかしたら、楳図かずおのホラーマンガに出てくるあの蛇女じゃないかと疑っていた。

それにしても、高いピアノを買い、高い月謝を払い、もう一人ピアノ曲用の先生をつけ、遠い教室まで車で送り迎えをし、ピアノ以外にもいろいろ習いごとをさせ、なんと両親の大変だったことよ、なんと大事に育ててもらったことよ・・・。あの頃の両親の年代に自分がなってみて、時間的にも金銭的にも体力的にもずいぶんエラかっただろうなとようやく想像できるようになった。そして苦労の甲斐もなく、こんな感じに出来上がってしまった自分をなんだか申し訳なく思うのである。
そんな厳しかった両親だが、年をとったせいか最近は何やかんやと相談してくることも多くなった。さらにパソコンやAV機器は彼らにとってはちと難易度が高いようですっかりお手上げの丸投げである。おまけに気のせいか謙虚さが薄れてきたようだ。仕事中に携帯電話が鳴るので、誰か倒れでもしたかと胸騒ぎをおぼえながら慌てて出ると、韓ドラの録画ができていなかったという苦情だったりして、こっちのほうが倒れそうになる。ま、あの頃の恩を思えば仕方がない、大目にみてやるか。

捨て魔の私には想い出の品を保存するという習性がなく、ピアノと楽譜以外にはほとんど何も残していない。それだけで十分だからだ。私とほぼ同年齢で、いつの記憶にももれなく登場するピアノ。時々鍵盤をさわる。古びた楽譜を眺める。記憶が川のように滔々と流れだしてくる。両親の傍若無人ぶりにも寛容になれる。
いつの日か広い家に引っ越したあかつきには、また昔みたいにたくさん弾いてあげるからねとなだめられ、今は物置台に甘んじている私の大切なピアノ。きっと、これからもたびたび襲ってくる大掃除という嵐にも耐え、私のそばに在り続けるだろう。