執筆者:昭和芸能デスク
2010年08月15日

毎日うだるような暑い日が続きます。
この時期、帰省のためや行楽地へ出かける人たちの車で、一般道路も高速道路も混み合い、大変な渋滞に巻き込まれて頭が痛い時節です。
特にこの暑さでは、遅々として進まない車の中でいっそうイライラが募るものです。

私が留学していたソウルも大変な自動車の量で、江南地方などの中心地はいつも渋滞していて、少しの移動にも時間がかかります。
韓国人は、大阪人にもなぞらえて言われることもたまにありますが、いわゆる『イラチ』の人が多いのだと思います。
横断歩道で道行く人とぶつかることもしばしばで、といってもぶつかった双方特に気にせず、がんがん突き進んでいきます。

韓国のドライバー、特にバスやタクシーの運転手さんは運転が荒く、少しでも道に余裕があると猛スピードで走らせます。
仁川国際空港からソウル市内までの空港バスに乗った時などシートベルトはもちろん、しっかり踏ん張っていないと急ブレーキを踏んだ時に体ごと吹っ飛んでしまいそうです。
実際、釜山へ行った時でしたが、市内を走るバスに乗っていて、急ブレーキとともにポーンと前へ飛んだことがありました。

ソウル市内でも、市内の路線バスは、バス停でおとなしく待っていてもすんなり乗れないことがあり、駐車している車などの物陰で見えなければ、バスはそのまま素通りしてしまいます。
自分が乗りたいバスがやって来たときは、駐車している車より前に一車線道路を越えて手を上げ、乗ることをアピールしないといけません。
ぴったりバス停の前には止まってくれないので、走って追いかけて乗り込むなどは日常茶飯事です。たまに追いかけるのをやめて引き返す人たちを見ることもありました。それくらいバスもがんがん突き進みます。

そんな少々運転など移動に関しては荒っぽい韓国ですが、留学生活を送る中で大変感心したのが、地下鉄などでよく見かける若者が席を譲る姿です。
お年寄りや妊婦が乗ってくると、ためらうことなく席を立ちます。
ある時、お母さんではなく男性が赤ちゃんを抱いて立っていたのですが、若者がすっくと立ち上がって席を譲っていましたし、年配の人が乗ってくると、声を掛けて席を譲っているのを何度も見かけました。
時には、お年寄りが乗ってきても知らんふりをする人もいますが、そこは韓国のパワフルさで、おじさんやおばさん、お年寄り達は「そこの学生、退きなさい。」と自らいって若者に席を立たせて座ります。

日本では、なかなかこうしたやりとりを見ることができません。
特に最近は他人との接触を避けたがる人も増え、気軽に声をかけるのも躊躇われますし、注意をしたり席を譲るよう若者にいうのは逆ギレの恐れもあって勇気が要る行為です。
また、近頃では中・高年齢層にも「逆ギレ」の傾向が見られるそうです。
主に、駅員への苦情などが感情的になってエスカレートする場合が多いようですが、地下鉄車内や駅構内で目にするようになった暴力行為の警告ポスターはこうした風潮を反映しています。
リレーエッセイでイスラム建築マニアさんも嘆いていましたが、だんだん日本では席を譲る思いやりも含め、マナーや秩序を守らない人たちが増えてきているように感じるのは、多くの人の共通認識でしょう。

留学生活の際にお世話になった下宿のおじさんは、約8年前の当時70代前半の年齢で、朝晩の挨拶など日本語を少しご存知でした。
十ほど年の離れた妻であるおばさんは、「おじさんは漢字も読めるのよ。」と話してくれたことがあります。
おじさんは、昼間は家の補修や食材の買い出しなど下宿の仕事をおばさんと一緒にしていましたが、朝夕はきまって静かに新聞を読んでいました。
いつも穏やかな感じで、口数はそれほど多くはありませんが、私が食卓のある居間に下りていくと、必ず朝は「××サン、オハヨウゴザイマス」、夜は「オヤスミナサイ」と日本語で声をかけてくれました。
そのおじさんが、ある時食事をしていたら「××サン、『人間の条件』を読んだことがありますか?」と聞かれたのです。
私は突然の問いに少しびっくりしながらも正直に読んでいないことを告げ、「なぜですか?」と聞き返しました。
『人間の条件』が、戦争を主題にしたものであることは知っていたので、少々身構えてしまったのですが、おじさんは「主人公の女性に感じが似ているから。」と話し、「××サン、あれは読んだ方がいいですよ。」と変わらぬ穏やかな口調で答えてくれました。

おじさんはきっと戦争の残酷さや悲惨さを知ってほしいという思いからだったと思いますが、内容はさておき、昭和芸能デスクの私としては、この本が映画化されたときに、主人公の女性(正確には主人公の妻)を誰が演じたのかが気になりました。
後で調べたところ、その役は新珠三千代であることがわかり、こっそりひとり嬉しくなりました。私が持つ新珠三千代のイメージが、きちんとした感じの女優さんというものだったからです。
もちろん似ても似つきませんが、古典的なものとして持たれる日本人女性のよいイメージであるように思われました。
夏が来るとおじさんとのそんな会話を思い出します。

外国で暮らすと、何とはなしに日本とか日本人であることをそれまでよりも意識して、日本の文化や風習を大切にしたり、日本人のよさを大事にしようと思ったり、日本のことが前より大切に思えて守りたくなるものかもしれません。
外から眺めて改めて思った日本のよさは、何事につけて全般的にきちんとしていることです。
韓国人にもよく日本の街はきれいだと褒められましたし、ロシアの留学生は日本のカメラは性能がいいといっていました。
アメリカからの留学生も私が家から持ってきたものを見て、日本のものはカワイイと羨ましがっていました。

一方、8年ほど前にハンガリーへ行った時、ブタペストの中心街のロータリーを囲む建物のひとつに、韓国大手企業の広告看板がどんと目立つ所に立っていました。
7年前に留学から帰ってまず驚いたのは、大阪市内の市バスがこれまた韓国大手企業の車体全面広告になっていたことです。
韓国企業はあちこち世界へ進出しているのだなと実感しました。
ニュースを見ていると、テレビなどの電化製品や新幹線、将棋や囲碁の世界まで日本が得意だったものがどんどん追い抜かされているような気もします。

海外へ行くたびに、やっぱり日本はいいなあと思うものの、このところの状況を見るにつけ、だんだん寂しい気持ちになるのは私だけでしょうか。
社会全体からきちんとさが徐々に失われ、冒頭で話した韓国のパワフルさもなければ、思いやりや実行力も薄れてしまっているように見えます。
なんとか日本のよさである「きちんと」を実践して、良い結果が出てくるのを期待したい今日この頃です。