執筆者:気まぐれシェフ
2011年12月15日

うちに、直径25センチ、高さ10センチほどの丸く平たいガラスの花器がある。
そこに、魚とタニシと藻が住んでいる。

魚は体長3センチのアカヒレという熱帯魚。
熱帯魚といっても、見た目はメダカのようで華やかなイメージとはほど遠いが、エアーポンプ不要でなおかつ水温の変化に強く、エサもほんのちょっとでOKという、飼育がとても簡単な魚である。
タニシは魚が出したゴミを食べてくれる掃除要員として雇われた。藻はモジャモジャした風貌で水中にぷかーっと浮くタイプのものだ。これは水中の酸素供給と彼らのすみか用である。

魚は10匹いたが、いっちょまえに皆それぞれ性格が異なっていた。
気性が荒くほかの魚を追いかけ回してばかりの子。エサがきたことに気づかずボーっとして、ほぼ食べ尽くされたころに慌ててて食べだす子。エサがあるのは知っていても藻の中にじっと隠れ、ほかの子が食べ終えて落ち着き出した頃に、残りのエサをゆっくり食べる子。
わざわざ、ボーっとしてる子の頭上にエサを浮かべてやったのに、やっぱり彼はボーっとしているから気づかず、遠くにいた目ざとい子達がシュシュシューッとやってきて食べてしまう。
「あんたらは来たらあかんていってるやんー、ちょっと、はよ食べな取られるよー!」と必死で叫んでも伝わらない。歯がゆい毎日である。

タニシは、当初2匹だったのに、あっという間に子供ができ、いまや総勢30匹ほどの大家族を構成している。
彼らはあんな足なのに意外に動きがすばやい。ここにいたと思ったら、目を離した隙に、もうかなり遠くを練り歩いてお食事中である。
水面から触覚だけちょこっと出すのが好きらしく、水面付近をぐるっとずらっとタニシ一家が並んでる様はかなり面白い。ふつふつとイジワル心が沸いてきて、エサやりのスティックでつついてみる。
たいていのタニシは「ああ~、なんてことするの~ごむたいな~」と言いながら、くっつていた手?足?をパッと離し、ころころと底に沈んでいく。あきらめが早いのだ。ところが、数秒後には早くもモゾモゾと歩き始めている。立ち直りも早いのだ。

藻も不思議なもので、あんな感じなのに、しっかり生きている。ひとつかみほどの大きさが、2~3週間もすれば、ふた回りほど大きくなり、なんだかもっさりしてくる。水槽いっぱいに広がってしまうので、魚の泳ぐスペース確保のため間引くのだが、またしばらくするともっさりしてくる。なかなかのタフさである。
水と光だけで育つって、よく考えれば、なんだかすごい。

魚の食べ残したエサやふんをタニシが掃除し、藻は魚とタニシのすみかとなり水中の二酸化炭素を吸収して酸素を送り出す。なんと簡潔でエコな世界だろう。
人間によって行われる水槽の掃除で大わらわになったり、意味無くつつかれたりして、平穏な日々ばかりじゃないけれど。それでも彼らはそのたびに立ち直って、もくもくと生きている。
必要な分だけを生産し、消費し、欲張らない。まさにシンプルイズベストである。

この水槽のように、この地球も誰かに眺められる存在だったりして。時々地球をゆすって遊ばれているから地震が起きていたりして。
もともとシンプルなしくみだったのに、人間に知恵や欲が生まれてしまったから、政治やら経済やら戦争やら環境汚染やら、そんなこんなで生きるのがややこしくなってしまっているんじゃないだろうか。
「あらら、人間っていう生物を入れたとたんに地球が汚れてきたじゃん。ほかの生物殺しちゃうし、人間同士も争いばっかりしてるし、こりゃ失敗だったね。回収するかー」なんて言われていたりして。

眺めているといろんなことを思いつく。この水槽、意外と奥が深い。枯山水のごとし。

あんたたちよかったね、こんないい水槽に住めて。でも恵まれすぎは良くないねえ、たまには試練をお受けなさい、と今日もタニシをつつく私。
でも、デパートがないのはイタいよなあ…。