2009年04月01日

このタイトルは経済学者の中谷巌氏が昨年(2008年)12月に上梓された本の題名です。ちょうどリーマンショックや世界的金融恐慌などで多くの人の目が否応なく経済に向いているときでもありベストセラーになっています。
中谷氏は経済学者として細川、小渕内閣時代に経済改革や戦略を考えるメンバーにも参画され、米国流のグローバル資本主義、市場原理主義への転換を強く訴え、その提言の一部は小泉構造改革にも採用されました。
しかし、同氏は今回の著作を「懺悔の書」と言うとおり、そのような自らの過去の見解や経済的提言が間違っていたと明言し、その理由について多角的に分析するとともに、新たな提案をされているのがこの本です。
その要点は、今世界の潮流となっているアメリカ流の新自由主義、市場原理主義、グローバル資本主義は人類を幸福にする原理ではない、現に幸福にしていない。とくに日本においては、この原理に基づく改革を進めていくと、日本の国民性や伝統的文化の長所、美点を破壊し、所得格差を拡大し、ひいては日本産業の競争力まで失うことになる、という点にあります。

実は、私も大学では経済学を専攻した者であり、この種の議論には大いに興味があるだけでなく、随所に「我が意を得たり」と感ずるところがあります。
経済学の勉強で当初に学ぶことの一つがアダム・スミスの経済論です。これは、経済は個人の自由意思が反映される「市場」に任せるべきで、「国家」はできるだけ介入すべきでない、そうすれば一見無統制、無秩序に見える経済活動は「神の見えざる手」によって均衡し、資源配分が最適になされる、という考え方です。これはまさに、「資本主義とは何か」という問いに対する端的な答えにもなっています。
私の大学時代、経済学はこの原理の延長線上にある「近代経済学派」と、資本主義の矛盾を指摘しこれを否定する「マルクス経済学派」が対立していました。しかし、今ではマルクス経済学はほとんど姿を消してしまいました。その実践であった社会主義国家の大部分が崩壊し、この理論は現実に適応できないものであるという烙印を押されたからです(中谷氏の本の中では資本主義に毒されていないブータンやキューバのことも紹介されていますが)。最近の世界的金融恐慌のもとでさえマルクス経済学の復権を主張する声は聞かれません。つまり、現在の世界はほぼ資本主義(自由主義、市場主義)一辺倒の状況になっているのです。

それでは資本主義は完璧でバラ色の社会システムかと言うと決してそうではありません。最近、アダム・スミスのプリミティブな経済論やそれのリメイク版ともいうべきアメリカ流新自由主義に対する反省や批判が世界の随所で台頭してきています。中谷氏の今回の著述もその一つであるということができます。
中谷氏の著述もそうであるように、今回の世界的金融恐慌の勃発によって世界がはじめて資本主義の欠点に気がついたわけではありません。かつて「修正資本主義」という言葉があったように、資本主義を警戒し、修正を加えて運用して行こうという理論や政策は古くからありました。にもかかわらず、最近になって(おそらくイギリスのサッチャー改革以降)その警戒感が後退し、アダム・スミスのプリミティブな経済論に回帰したような様相を呈していたのです。
中谷氏は、「市場」というものは信用しすぎてはいけない、情報や資金量で優位に立つ者が強欲に基づいて市場を恣意的に操作することがしばしば起こり、その結果本来期待されているはずの均衡が歪められ、効率性が阻害される。加えて、「市場」は本源的に「投機」であり、必ずバブルの生成とその崩壊を来す、その一つが今回の金融危機である、と言います。

私自身の変遷で言えば、まずマルクス経済学や社会主義国家に魅力を感じ、資本主義を肯定できない時代がありました。個人の自由意思と言うが、それはわがまま、利己主義、金もうけ主義ということではないのか、「儲かる」、「得をする」という動機で動く人間、鼻先ににんじんをぶら下げて他人を支配し利用しようとする人間、そのような人間は「美しくない」と私は感じていました。
しかし、その後中国の社会主義(1970年代)を見ている間に社会主義にも失望しました。国家の介入、政治主導、官僚主義などは資本主義的個人主義よりはるかにたちが悪いと感じました。
以来私は、数百年後人間がその知恵と良心の進化によって神仏に近づくまでは、この資本主義以上には人間社会の営みに安定をもたらす原理はないと思うようになりました。
しかし、その後も私の脳裏から資本主義が「うさん臭いもの」であるとの思いが消え去ったことはありません。「儲けたい」、「儲かることは何でもする」という欲望と行動の動機が常に根底にあること。個人であればそれでも良心やより良質の動機によってそれを自制することがありますが、「投資ファンド」に象徴される組織や機関に集約された資本の行動では「金儲け」という直接的目的以外のことは思考の対象にならないのです。加えて、強力な力をもつ資本は彼らの自由奔放な投資(投機)活動に規制を加えようとする勢力に対して力づくでそれを排除しようと画策し、それにも成功します。
今回の金融恐慌の引き金になったのはサブプライムローンの証券化商品という金融商品でしたが、これ自体が「うさん臭い金儲けの仕掛け」だったのであり、にもかかわらずみんながそれに手を出したのは、世界的な金余り現象のなかで、何が何でもハイリターンを得ようとした欲望と計算の結果だったのです。
今のグローバル資本主義に規制がかからない限り、このような現象はまた何年か後に、何十年か後に必ず起こるに違いありません。

しかし、日本がそれに追随しなければならない理由はありません。少なくとも日本はこの悪しきグローバル資本主義から一線を画して、「美しい日本」であり続けてほしいと願わずにはおられません。
この点に関する中谷氏の記述はきわめて説得的です。日本人のアイデンティティを検証し、経済システムにおいてもそれが生かされることが重要であることを論証されています。
とくに日本の歴史に多くのページがさかれています。弥生人は先住民である縄文人を征服しなかったこと、日本人は古来自然と共生し、そこに神が宿ると考えてきたこと、神道と仏教は融合してきたこと、一国家一文明という世界にない国の形を維持してきたこと、などなど。
日本はこれらの歴史と文化の点において欧米(とくにアメリカ)と著しく異なり、異なるだけでなく実に誇るべき美点をもっています。にもかかわらず、易々と欧米の自由主義や市場原理主義に追随することがあれば、それは日本人が営々と承継してきた貴重な精神的財産の毀損を意味します。これは何としても回避しなければなりません。
むしろ、回避し、守るだけでなく、それらを世界に向けて発信することを視野に入れるべきです。例えば、人間と自然の関係、自然は征服するものではなく共生するもの、崇め、愛するものであるという日本人の考え方は地球規模の環境問題の解決にも示唆を与えるはずです。

いずれにしても、現在進行中の世界的金融恐慌を理解するためにも、またこの際日本人としてのアイデンティティを確認するためにも私は中谷氏のこの本は必読の書であると考えています。
皆さんにもぜひ一読をお勧めします。