2020年09月01日

このシリーズも8回目となりました。引き続き、船場の歴史をひもといていきたいと思います。
豊臣秀吉が大坂城の城下町として「船場」を開発して以来、大坂は「商人の町」、「商業の町」というアイデンティティのもとに発展してきました。しかし他方、大坂、とくに船場は、江戸時代を通じて、先進的な教育や学問、文化や芸能が発展・充実した町でもありました。
教育面では優れた指導者のもとでレベルの高い教育が行われ、また、文楽や歌舞伎などの文化は大阪が発祥の地です。
また、それらの多くは、官製ではなく、民間(町人)の手によって育成、発展させてきたものであり、このことも大阪人の誇りであります。
武士や公家などの権威にとらわれない自由闊達な学問、「知」に対する功利主義や出世主義を超えた純粋な探究心(懐徳堂や適塾で学んでも仕事には縁がなかった)がそこにあったと言えます。このことは、私が「船場」に魅力を感じて止まない理由の一つでもあります。
なお、「大坂」と「大阪」との使い分けについては、明治以前の事象か、明治以降かによって一応区別していますが、厳密な区別ではありません。

石田梅岩・心学明誠舎
(この部分の記述は前号と重複します。)
江戸中期、町人や商人に「石門心学」を説いた思想家、石田梅岩(1685~1749年)という人物がいました。
梅岩は、それまで低く見られていた商人について、「身分は役割の違い、商人のもうけは武家の俸禄と同じ」と説き、また、「商人道は人の道」、「正直、勤勉、倹約」、「先も立ち、我も立つ」、「商人道、商売とは先様に喜んでもらうもの、感動を与え、その結果として自分も儲かる」、「富は個人に資するものではなく、天下の人々のもの」などと説きました。
梅岩没後、弟子たちによってその教えがさらに広まり、全国に約180の講舎ができました。
1785年(天明5)、南船場飾屋町に、大坂の町人らによって「心学明誠舎」が創設されました。
船場商人の多くがここで梅岩の教えを学習し、商人の家業を支える商人道徳を身につけました。商人たちに商売の指針を与えたユニークで貴重な教育施設、修行施設でした。
その精神や伝統は現在の大阪商人の中にも生き続けています。近江商人の「三方よしの理念」や、松下幸之助の「共存共栄」の思想なども梅岩の教えの延長上にあると言えます。
「心学明誠舎」は「船場の旦那」と呼ばれた人たちによって支えられてきた講舎で、聴講料等を一切取らず、身分・年齢・性別の別なく、誰でも自由に聴講できたといいます。
昭和20年(1945年)、大阪大空襲で消失しましたが、昭和30年(1955年)、活動を再開しました。今も有志たちによって講演会や勉強会が各地で多数回行われています。
島之内、堺筋に面して、「心学明誠舎跡」の石碑が立っています。その南、大蓮寺に石田梅岩の墓があります。

橋本宗吉・絲漢堂(しかんどう) (1763~1836年)。
大坂北堀江の造り酒屋の長子として生まれ、蘭方医、蘭学者となり、大坂最初の蘭学塾「絲漢堂」を開きました。「大坂蘭学の始祖」であり、また日本の電気学の学術的研究の祖とも言われます。
「大坂の西洋学は宗吉より始まる」と書かれた書物もあります。
弟子に中天游、孫弟子に緒方洪庵がいます。

適塾
緒方洪庵(1810~1863年)が開いた町人のための学問所。今もかつての場所にその建物が残っています。大阪大学医学部(その源流が適塾)の所有で、昭和39年(1964年)国の重要文化財に指定されました。
備中足守の藩士で蘭学者・医師・教育者であった緒方洪庵が、1838年(天保9年)、蘭学塾として開きました。正式には「適々斎塾(てきてきさいじゅく)」と言い、また「適々塾」とも称されます。「自分の心にかなうことに従い楽しめばよい」という意味です。
日本の蘭学の中心となり、医学のほか語学塾の側面も強く、広く人材教育を展開しました。
塾生の主な顔ぶれは、
福沢諭吉(1855年入門)
大鳥圭介(駐清講師・男爵)
橋本左内(安政の大獄で処刑された開国派志士)
大村益次郎(1846年入門、4代目塾長、日本近代陸軍の父)
長与専斎 (ながよせんさい、岩倉遣欧使節団)
佐野常民(日本赤十字社初代総裁・伯爵)
高松凌雲
杉亨二(統計学者・日本近代統計の祖)、
手塚良仙(漢方医、手塚治虫は良仙の曽孫。その歴史漫画「陽だまりの樹」に主人公の一人として登場する。)
石田英吉(海援隊隊士・男爵)
武田斐三郎(あやさぶろう、五稜郭の設計者、武田信玄の子孫)
蓑作秋坪(みつくりしゅうへい、東郷平八郎、原敬らが学んだ三叉学舎を創立)
など。
いずれも幕末から明治維新にかけて活躍し、明治維新の骨格を作り、近代日本の建設に偉大な貢献をした人たちです。
適塾には全国津々浦々から門弟が通い、通学者を含めると3000名近くが学 びました。
建物の中には、ヅーフ辞書(蘭和辞書)の争奪戦を繰り広げたヅーフ部屋、激論の果てやストレスで無数の刀痕が柱に残る大広間などが今も残っており、見学も可能です。
洪庵は、1849年、ジェンナーが開発した種痘(天然痘の予防接種)が長崎に着いたとき、早速それを入手し、現道修町に種痘館を開設して、困難な中その普及に尽力しました。種痘館は1860年、現今橋に移転し、現在は緒方ビルになり、その4階に「種痘館記念資料室」があります。
1862年(文久2年)、洪庵は江戸幕府奥医師兼西洋学問所頭取となり、江戸に移住。適塾での塾生の教育には養子の緒方拙斎が当たりました。
翌年1863年(文久3年)、洪庵が江戸で客死し、1868年(明治元年)適塾は閉鎖されました。
洪庵は和歌が趣味で、囲碁も打ちました。大坂庶民が最も愛した名医だと言われています。
その銅像が平成8年(1996)に建立され、今も現地に置かれています。

懐徳堂
1724年、商人主体の学問所として、大坂の豪商であった三星屋武右衛門、富永芳春(道明寺屋吉左右衞門)、舟橋屋四郎右衛門、備前屋吉兵衛、鴻池又四郎が出資し(「懐徳堂の五同志」と称されます)、三宅石庵を学主に迎えて、現在の今橋四丁目に設立されました。朱子学や陽明学を学ぶ学問所となっていました。
東京の官立・官営の昌平黌(しょうへいこう)に対して自由な商人を主体とした学風で対抗しました。
門下生には、草間直方(くさまなおかた、貨幣経済学者)や富永仲基(とみながなかもと)、山片蟠桃(やまがたばんとう、天文・地理・歴史・法律・経済学)などがいます。
富永や山片らの鬼才は現在でも通用する高度な学問の境地を開き、懐徳堂こそ当時の日本の最高の水準を維持する学府だと言われていました。
しかし、明治政府になり、旧幕府から受けていた諸役免除などの特権を廃止されたため、明治2年(1869)に閉校されました。その学問の流れは後の大阪大学に引き継がれています。
淀屋橋の日生ビルの壁面に「懐徳堂跡」の碑が設置されています。
明治末年から大正初年にかけて、「財団法人懐徳堂記念会」が発足し、授業が継続されました。戦禍を免れた資料は昭和24年大阪大学の設立を機に大学に寄贈され、「懐徳堂文庫」と名付けて受け継がれました。
以来大阪大学が懐徳堂記念会と協力して各種の事業を展開していくことになり、平成16年(2004年)から懐徳堂の講座の多くが大阪大学中之島センターで行われています。
大阪大学は適塾と懐徳堂を自らの源流と認識しているそうです。

山片蟠桃について
(この部分の記述は前号と重複します。)
懐徳堂で学んだ一人「山片蟠桃」はとくに有名ですので、ここであらためて紹介しておきます。
出身は播磨。大坂(今の北浜)に出て船場の商家「升屋」の丁稚になり、24歳には番頭となりました。升屋の再興に励むなかで商才を認められ、後には升屋と大名貸しなどの取引があった仙台藩の財政立て直しにも尽力しました。そのあと、奉公先の「山片」の名を使うことを許され、「番頭」をもじって「蟠桃」と名乗りました。
猛勉強家であった蟠桃は、その学問の成果として、大正5年(1916年、蟠桃の死後)、「夢の代(しろ)」を世に出しました。
百科全書的な実学啓蒙書で、経済論のほか、天文・地理・神代・歴代・制度・無鬼など12巻からなります。自然科学に関しては、ニュートン力学、コペルニクス地動説にも触れ、神話や迷信を否定した無鬼(無神)論を展開し、徹底した合理主義者でした。
「夢の代」の巻末に次のような一文があります。
「地獄なし。極楽もなし。我もなし。ただ有るものは人と万物。神仏・化け物もなし。世の中に奇妙ふしぎのことは猶なし」
蟠桃の墓所は北区与力町善導寺にあります。
後に、司馬遼太郎氏の提唱により「山片蟠桃賞」が設けられ、現在も日本文化の国際性を高めた人たちに贈られています。

泊園書院、漢学の私塾
四国高松藩出身の儒学者、藤澤東畡が文政8年(1825年)、大坂市中に開いた漢学の私塾が「泊園書院」です。江戸後期から昭和初期まで約120年にわたって営まれた、大阪を代表する、大阪最大規模の学問所です。関西大学の源流の一つと言われています。
東畡は大坂を代表する碩学として活躍、高松藩から士分に列せられるとともに、豊岡藩主・京極高厚、尼崎藩主・松平頼胤(よりたね)の賓師となって儒学を講じました。平野含翠堂にも毎年出講していました。幕末には勤王の志士の慕うところともなりました。
東畡の子の南岳は第二代院主として、幕末の混乱期を経て明治初めに泊園書院を再興しました。
明治9年(1876年)、書院の場所を淡路町に移し、本格的な教育活動を展開し、黄金期を築きました。この場所には、昭和35年(1960年)大阪市によって建てられた「泊園書院跡」の石碑が今もあります。
また、南岳は、「通天閣」、「仁丹」、「愛珠幼稚園」、「寒霞渓」などの命名者でもあります。
南岳の死後、黄鵠・黄坡の兄弟に受け継がれ、兄黄鵠の泊園書院本院(東平野町)と弟黄坡の分院(竹屋町)に分かれました。黄鵠の死後、竹屋町が本院となりました。
黄坡は戦後まもなく関西大学最初の名誉教授になっています。また、黄坡の長男である作家・藤澤桓夫は明治37年(1904年)、竹屋町の泊園書院で生まれ、ここで育っています。
高麗橋の「菊屋」の看板は黄坡の揮毫によります。

大阪舎密(せいみ)局
明治2年(1869年)、大阪城の西に大阪府立の理化学専門学校が創立されました。現在、中央区大手前の本町通沿いのクスノキの下に「舎密局址」の石碑が立っています。
この学校は後に第三高等中学校になりましたが、京都市に移転し、明治27年(1894年)に第三高等学校となり、明治30年(1897年)に京都帝国大学が設立されました。
京都大学のルーツは実は大阪にあったのです。
京都での開校式で当時の校長は、「大阪は事業を作興するの地にして人材を教育するの域に非ざる」と評していた由ですが、大阪人としてはにわかに認めがたい言説とも言えます。

愛日小学校
愛日小学校の前身は、明治5年(1872年)、現在御堂筋沿いにある「淀屋橋Odona」の場所で創立された「東大組第13区小学校」です。
ここには当時、江戸時代からの豪商「升屋」こと山片家の邸宅があった所で、前述の山片蟠桃が奉公していた所です。八代当主山片重明はこの邸宅を小学校設立のため、土地、建物、建具ごと学校に寄贈したのです。
その中には、山片家旧蔵の書籍類(計約6600冊)があり、山片蟠桃の学問上の研究書、蟠桃が仙台藩主や白川藩主などから拝領した貴重書の数々も含まれていました。
「愛日小学校」の名がついたのは明治19年(1886年)ですが、近くの「愛珠幼稚園」の「愛」を取ったものと思われます。
明治時代初期に社会教育や社会見学をいち早く取り入れた学校と言われています。昭和33年(1958年)にはインドネシアのスカルノ大統領が当校を視察しています。
いろいろな学制上の変遷を経て、平成2年(1990年)3月、大阪市立集英小学校と統合され、大阪市立開平小学校となったことから閉校となりました。
その跡地に、平成20年(2008年)3月、再開発ビルとして、淀屋橋Odona、三井住友海上大阪淀屋橋ビル、淀屋橋三井ビルディングが建設されました。
膨大な貴重書は、「愛日文庫」として、開平小学校内「愛日教育会」が管理するようになり、年1回「愛日曝書」(虫干し)が行われます。

愛珠幼稚園
愛珠幼稚園は民間の手で創設された、大阪府下でもっとも古い幼稚園で、全国でも3番目に古い、現役では2番目に古い幼稚園です。
現在も明治の建築の面影を残しており、国の重要文化財に指定されています。
明治13年(1880)、船場北部の連合町会、つまり地域住民の尽力で創設されたもので、明治22年(1889)に大阪市に移管されました。
明治34年(1901年)に現園舎が竣工、開園されました。その建物は国指定重要文化財になっています。
この場所は、江戸時代、「銅座」(国内産の銅の精錬と売買を独占的に総括する役所)が置かれていたところです。幼稚園の南の門にその顕彰碑が今も設置されています。
建物は明治時代の建築の面影、船場の貫禄を残しており、複雑で優美な屋根、風格のある玄関や遊戯室、明るい中庭はすばらしいものです。昔の船場商人の子弟教育にかける心意気が伝わってきます。
明治時代にストラディバリやマッジーニ作のヴァイオリンやイルムラーピアノを有するほどの高度な音楽教育を行っていたというのは驚くべきことです。