2019年11月01日

私が所属する「栄光綜合法律事務所」を船場の地に移してから約5年が経過しました。「船場」への思い入れが強い私は、折あるごとに船場のことを勉強し、それに主観をまじえて綴ってきたのがこのシリーズです。
なお、明治維新を挟んでこの地は「大坂(おおざか)」から「大阪(おおさか)」へと文字も読み方も変わりましたが、以下の記述ではこれらを厳格に区別せずに用いています。また、「船場商人」と「大阪商人」はほぼ同じ概念と認識してください。

「大阪商人」とは
江戸時代以降、船場を中心とする大坂が商人の町、商業の町となり、そこで住み、働く商人のアイデンティティが次第に確立していきました。
「船場商人(大坂商人)」というのは中世以前には存在しません。豊臣秀吉が天下を取ったあと、大阪城を築城し、その城下町として「船場」という町を(土地の造成から始めて)新しく作りました。船場ができる前から大坂には商人はいたでしょうが、アイデンティティをもった船場商人という集団が定着したのは江戸時代以降と言えます。
秀吉はこの新しい町、船場に商業を発展させるため、平野、堺、京都の伏見などから多くの商人を強制的に移住させました。核になる、戦略的な業種のアグレッシブな商人を秀吉は積極的に誘致しました。それが起爆剤になって、秀吉の時代が終わり江戸時代に入っても、引き続き近畿各地からこの先進的な土地、船場や堂島に各地から商人が続々と集まってきました。
淀屋、鴻池、住友、いずれもそうです。後には、山梨から小林一三(阪急阪神東宝グループ創業者)、和歌山から松下幸之助(パナソニック)、福井から池田商店(衣料品製造・販売)、奈良から渋谷利兵衛商店、また、前回記述した「近江商人」も大きな存在感と影響力を発揮しました。
このように、ほかの土地から夢と情熱をもって乗り込んできた商人たちによって船場が発展し、同時に船場商人(大阪商人)が形成されていきました。

「江戸商人」との違い
大坂は町人主体の町であり、そのことは、同じ新しい町江戸と人口構成を見ても明らかです。大坂の人口は40万人、うち武士は5千人だけ。江戸は、人口100万人のうち約半分が武士です。
大坂町奉行の下に、三郷(北組・南組・天満組)の有力商人の中から、「惣年寄」が世襲制で選ばれ、また「町年寄」が選挙で選ばれました。いずれも一定の自治権をもっていました。
また、大坂商人は問屋、仲買、両替商らいずれも堂々たる自立性、主体性をもっていました。有力両替商は蔵元や掛屋を兼ね、複数藩からその財政を任されることも少なくありませんでした。蔵屋敷の御留守居役が両替商のところに年始回りするほどの関係だったと言います。
つまり、大坂商人は武士と対等、またはそれ以上の実質的な力をもっていたのかもしれません。
それに反して、江戸商人の中心は幕府の御用商人でした。

大阪商人の精神性
大阪商人は商売の道徳を重視しました。また、顧客第一主義でサービスに徹するという気持を持っていました。
そういう商人たちの感性と気概が、長年の試行錯誤や時代を経て不動の教訓となり、後世に語り継がれる大阪商人の精神性が確立したものと思われます。

家系や商売の永続性(今で言えばサステナビリティ)が重視されました。代々にわたり、破綻することなく家系・家財を保持、承継し続けることが大事であるという意識が確立しました。
鴻池家では、その考え方に基づき、たとえ当主たる地位についたとしても、それは「輪番」(バトンを受け継ぐ代々の当主)の一人と認識する、自分が管理する財産や使用人は「預かり物」と認識する、という教訓が定着しました。
他家の人や見込みのある使用人を養子に迎え、やがて経営を任す(実子は選べないが養子は選べる)という当主承継の考え方もそういう思想からきたものです。

大坂商人は、「始末」、「才覚」、「算用」を徳目としました。
「始末」とは、帳簿の始まりと末、つまり帳尻を合わせること。質素倹約に通じます。
鴻池善右衛門は外出にかごを使わず歩いた、と言われています。
「才覚」はアイデア。ひらめきや頭のよさ。創意工夫。
山片蟠桃は米俵の検査に使う「差し米」を集めて多大な利をあげた、という例がよく挙げられます。
「算用」はちゃんと利益があるか計算せよ、ということ。そろばん勘定に優れていることです。
おもしろいことに、江戸の身分制のもとではこういうことは逆に卑しいこととされました。

石田梅岩
江戸中期、町人や商人に心学を説いた思想家、石田梅岩という人物がいました。
1785年(天明5)、南船場飾屋町に、町人らによって「心学明誠舎」が創設され、船場商人の多くが梅岩の教えを学習したことが、船場商人の精神形成に大きく影響を与えました。
「船場の旦那」と呼ばれた人たちがこの講舎を支えてきました。
梅岩の教え(「石門心学」と言われる)の柱は、「商人道は人の道」、「正直、勤勉、倹約」、「先も立ち、我も立つ」などの思想であり、商人たちに商売の指針を与えました。
近江商人の「三方よしの理念」や、松下幸之助「共存共栄」の思想などは梅岩の教えの延長上にあります。
この思想は現在の大阪商人の中にも生きており、大阪の精神的な伝統は地下水脈に生き続けています。
梅岩没後、弟子たちによってその教えがさらに広まり、全国に約180の講舎ができました。
石門心学は商人の家業を支える商人道徳となり、近代日本の経済人の理論的、精神的な支柱となりました。
現在もなお有志たちによって講演会や勉強会が各地で多数回行われています。
島之内、堺筋に面して、「心学明誠舎跡」の石碑が立っています。その南、大蓮寺に梅岩の墓があります。

懐徳堂(かいとくどう)
懐徳堂は、江戸時代の享保9年(1724)、現在の今橋四丁目に設立され、明治2年に閉校となった大坂の学問所の一つです。近くにあった「適塾」とともに大阪人が誇るべきすぐれた教育機関でした。
特徴の一つは、これも商人主体の学問所であり、大坂の有力商人(「懐徳堂の五同士」、うちの一人が鴻池又四郎)によって設立され、「船場の旦那衆(町衆)」によって支えられてきた学問所だということです。
後には幕府から公認され、官許の学問所となり、学校敷地も拝領しましたが、東京の官立、官営の「昌平黌(しょうへいこう)」には対抗意識をもっていました。江戸の儒学は幕藩体制の支えあり、儒者は幕府や藩に雇われているという反発があり、自由で主体性をもった商人の気概や、実証主義、合理主義を主体とした学風に自信をもっていました。
この大阪と東京の違いは現代にも通じるものがあります。
懐徳堂での学問は、「石門心学」のように商人道徳、精神論にとどまらず、自然科学や社会科学などの分野にも及んでおり、かつ、そのレベルは非常に高いものでした。
懐徳堂こそ当時の日本の最高の学問水準を維持した学府であるとの評価もあります。
草間直方(くさまなおかた、貨幣経済学者)、山片蟠桃(やまがたばんとう、天文・地理・歴史・法律・経済学)、富永仲基(とみながなかもと)などが有名です。
その学問の流れ、また膨大な資料は現在大阪大学に引き継がれています。大阪大学は、適塾と懐徳堂を自らの源流と認識している由です。
淀屋橋の日生ビルの壁面に「懐徳堂跡」の碑が設置されています。

山片蟠桃
この「懐徳堂」で学んだ一人が町人学者の「山形蟠桃」です。
出身の播磨から大坂(今の北浜)に出て商家「升屋」の丁稚になり、24歳には番頭となって升屋の再興に励みました。商才を認められ、後に升屋と大名貸しなどの取引があった仙台藩の財政立て直しにも尽力しました。そのあと、山片の名を使うことを許され、「番頭」をもじって「蟠桃」と名乗りました。
猛勉強家であった蟠桃は、その学問の成果として、1916年(大正5、蟠桃の死後)、「夢の代(しろ)」を世に出しました。
百科全書的な実学啓蒙書で、経済論のほか、天文・地理・神代・歴代・制度・無鬼など12巻からなるものです。自然科学に関しては、ニュートン力学、コペルニクス地動説にも触れ、神話や迷信を否定した無鬼(無神)論を展開し、徹底した合理主義者でした。
「夢の代」の巻末に次のような一文があります。
「地獄なし。極楽もなし。我もなし。ただ有るものは人と万物。神仏・化け物もなし。世の中に奇妙ふしぎのことは猶なし」
蟠桃の墓所は北区与力町善導寺にあります。
後に、司馬遼太郎氏の提唱により「山片蟠桃賞」が設けられ、現在も日本文化の国際性を高めた人たちに贈られています。

船場言葉
船場のアイデンティティの一つに「船場言葉」があります。江戸時代から近代初期にかけて、船場は大坂の中心地として繁栄し、船場言葉は商業社会の共通語として広く用いられました。昭和中期まで、折り目正しい大阪弁の代表格として意識されてもいました。
秀吉が船場を開発した当初は堺から移住させられた商人が大半でしたが、その後平野商人、京都の伏見商人らが台頭、江戸時代中期には近江商人が船場へ進出してきました。
このような経緯から、船場言葉は堺の言葉を基盤に各地商人の言葉が混ざり合って成立したものとみられています。
商いという職業柄、丁寧かつ上品な言葉遣いが求められたため、京言葉(とりわけ御所言葉)の表現を多く取り入れ、独自のまろやかな語感、表現が発達しました。
一口に船場言葉といっても、話し相手や状況、業種、役職などによって言葉が細かく分かれていました。経営者(主人、旦那)一族と従業員(奉公人)との間で呼称が明確に異なっていたのもその一環です。
明治以後、中等・高等教育の普及により標準語化が進み、また阪神間の別荘や宅地開発に伴って船場商人の職住分離が進んだことで船場言葉は少しずつ変質していきました。
さらに、大阪大空襲や戦後の混乱で旧来の住人が離散したり、高度経済成長によって商習慣が大きく変化したことなどが原因となって船場言葉は急速に衰退し、今では上方の古典落語の一部などで耳にするほかは、限られた高齢者の間でしかコアーな船場言葉は使われなくなりました。
しかし、昨今船場言葉を守り伝えようとする動きもあり、例えば1983年に結成された「なにわことばのつどい」では約200人の会員がその活動に勤しんでいます。

船場言葉の具体的な表現としては、できるだけ丁寧な表現を用います。大阪市民が多用した「おます」や「だす」よりも、「ござります」や「ごわす・ごあす」、否定形は「ごわへん」、「ごあへん」。
尊敬語に関して、一般市民が多用した「なはる」や「はる」よりも、その原型である「なさる」や京言葉から取り入れた「お・・・やす」が多用されました。
店の主人一族に対する呼称は、「おやだんさん(主人の父)」、「おえさん・おえはん(主人の母)」、「だんさん・だなはん(主人)」、「ごりょんさん(主人の妻)」、「ごいんきょはん」。
子供には「ぼんさん・ぼんぼん(主人の息子)」、「いとさん・いとはん・とおはん」(主人の娘)、成人後は「わかだんさん」、その妻は「わかごりょんさん」。複数いる場合、上から順に、「あねいとさん」、「なかいとさん」、「こいとさん・こいさん」。
奉公人の呼称としては、「ばんとはん(番頭)」、名前を呼ぶときは「どん」を付け、「五助どん」、「でっちさん・こどもっさん・ぼんさん(丁稚)」
各人を呼ぶときは名前に「どん」または「とん」を付けます。「定吉どん」、「さだきっとん」。
「おとこっさん(下男)」、「おなごっさん(下女)」、「おんばはん(乳母)」、「もりさん(子守り)」なども。

船場汁
「船場汁(せんばじる)」は船場で生まれた料理で、「船場煮」とも。塩サバなどの魚類とダイコンなどの野菜類を煮込んで作る具沢山の汁。
塩サバの身、頭、中骨などを切り、ダイコンとコンブをいれて水から煮ます。アラが肝要で切り身だけでは味が出ません。具が煮えたら醤油で味を整えます。薬味としてネギを入れる場合もあります。本来はコショウを振ります。おろし生姜もサバの臭みをとり冬季には身体が温まってよいものです。
頭や中骨などのアラまで余さず使いムダがないこと、単価が安いこと、時間をかけずに食べられ、体が温まることなどから、忙しい問屋街で重宝され、普及し、定着しました。