2006年01月01日

お正月が来たからまた1つ歳を重ねたというわけではありませんが、今年は私もいよいよいわゆる高齢者の仲間入りです。
世の中には、自分を年齢より若く保とうとする人間(その意味で加齢に抵抗する人間)、自然体で過ごす人間、必要以上に老けていく人間がいます。
私はどちらかと言うと、自分を年齢より若く保とうとする人間だと思います。
日頃から般若心経を信奉しているので、「生老病死」に対して過度の恐怖感やこだわりを持ってはいません。その意味では加齢に抵抗するつもりはありません。
私の加齢に対する抵抗は、自分が「年寄り臭くなる」ことへの抵抗であり、外観や振る舞いに「老醜」が現出することへの嫌悪感と恐怖心です。

老化はまず姿勢に出ます。
背中が丸まり、尻が下がり、下腹が出た状態で、膝を曲げたまま、ひょいひょいと歩く姿はいかにも老人臭くて見苦しいものです。
私はそのような醜さがなるべく表に出さないよう、意識的に歩幅を広くし、膝を伸ばし、かかとから着地して歩きます。気が短いこともあり、私の歩くスピードは人より速いと思います。

服装もできるだけ年寄り臭くならないように努めています。
とかく老人は服装に無頓着、無精になりがちですが、そうしているとますます「年寄り臭い」と言われ、うとましく思われ、そして、「必要以上に老けていく」ことになります。
男も女も同じですが、派手な服装をしている老人の方が間違いなく元気に見えます。派手すぎて見苦しいということはまずありません。
明るいジャケット、アスコットタイ、スカーフ、ポケットチーフ、ハイソックス、帽子など、少しおしゃれをすることで、その少しの勇気が大きな尊敬を集め、後輩や異性からうとましく思われるのを遅らせます。

老眼も避けることはできません。
しかし、人前で書類や本を見るとき、目から遠く離して見たり、近視メガネを外して書類を顔の間近に近づけて見たりする光景はいかにも年寄り臭くて私はいやです。
私はもともと近視ですが、老眼が出始めた当初から遠近両用メガネをかけています。こんな便利なものはありません。また、フレームも、一見して旧式のものはかけません。

「物忘れ」、これも年を経るにしたがって高じてきます。
しかし、わざわざ人前で、「私この頃物忘れがひどくなりまして・・」などと言う人がいますが、あれはいただけません。弁解とも自虐とも同情をもらいたいためともわからないそのようなせりふは聞いていて不愉快です。私は使いません。
固有名詞などを思い出せないときでも、自分からそのことを告げる必要はなく、その固有名詞を使わないで会話を運ぶようにすればよいだけのことです。

歳を取ると、だんだん人の話を聞かなくなります。聞かないだけでなく、自説に固執して他人との違いに柔軟に対応しようとしない傾向があります。頭が堅くなっているのです。
人の話を謙虚に聞き、人の誤りに向きにならず、自分の誤りはすぐに訂正し、自分がしゃべる時間と他人がしゃべる時間の配分に気配りをする人間、いつまでもそのような人間でいたいものです。そうでないと同輩たちにも嫌われ、友達を失います。歳を取って友達を失うと取り返しがつきません。

高齢者が集まると、つい体の不具合、服用している薬やサプリメント、病院通い、健康法などに話題が向かいがちです。私はこれが嫌いで、いつも苦々しい思いで聞いています。
情報を得るのはありがたいとはいえ、愉快であるべき食事のテーブルではもっと豊かな話題があるのではないかと思います。
時事問題、映画や音楽、読書感想、旅行談、恋愛論、幸福論、宗教論、趣味の話題などなど。年寄り臭い話題より、青臭い会話の方がいいではありませんか。
私はいつでもそういう話題に付いていけることを自分の美学としています。それなりの努力もしています。

とにかく、醜い老人にならないために最も重要なことは、「いつも頭を柔らかく保つこと」であると思います。
そのため、私はいつも自分に対して、「頭をやわらかく、頭をやわらかく」と言い聞かせています(ときには人にも忠告します)。実現できているかどうかは別問題ですが、意識とエネルギーが衰退するまではそれを自分に言い聞かせつつ、自他ともに認める「老人臭くない老人」としてシニアライフを過ごしたいと思います。

最後に私の好きな白楽天の詩を紹介します。私の心境と酷似しているので、うれしくなり、よく人に紹介する詩です。

東城に春を尋ぬ   白楽天

老色 日に面に上り
歓情 日に心を去る
今 既に昔に如かず
後 当に今に如かざるべし
今なお未だ甚しくは衰えず
事毎に力任うべし
花時なお出づるを愛し
酒後なおよく吟ず
ただ恐る かくの如きの興も
また日に随って消沈せんことを
東城の春 老いんと欲す
勉強して一たび来尋す