2004年01月01日

戦前の日本には「姦通罪」という刑罰がありました。刑法のなかに規定されていました。
「姦通」とは、広い意味で、男女が道徳や法にそむいて異性と情を通じること(不義、密通)ですが、狭い意味では、夫または妻が他の異性と肉体関係を結ぶことを意味します。
しかし、「姦通罪」でいう「姦通」とは、さらに意味が狭く、「妻が夫以外の男性と肉体交渉をもつこと」だけを意味しました。
つまり、夫が妻以外の女性と肉体交渉をもっても、それは「姦通」とは言わず、「姦通罪」は成立しなかったのです(但し、相手が人妻であれば、人妻が犯した姦通に加担したということで相手の男性も罰せられました)。
妻にだけ貞操義務を科し、夫は自由、というのは、長い間ほぼ日本の伝統的道徳であったと言えますが、戦後の新憲法のもとでの男女平等の思想とは明らかに相容れないものです。
そのため、「姦通罪」は1947年(昭和22年)刑法の規定から削除され、廃止されました。
男女平等の点だけで言えば、廃止せずに、夫、妻両方に姦通罪が成立する形でこれを存続させるという選択もありました。実際にその検討もなされたようです。
もしそうなっていれば、その後の日本社会はどのようになっていたでしょう。想像するとなかなか興味深いところです。
姦通(不倫行為)は間違いなく減ったでしょうが、それが人々の幸福にプラスになったでしょうか。
人間性の根元が「自由」にあることを重視すれば、不倫という非道徳的行為であっても、それを法律(しかも刑罰法規)によってまで規制するのはやはり行き過ぎと言うべきでしょう。

ところで、社会には、非道徳的であっても法律で規制されない行為と、非道徳であるために法律によって規制される行為があります。
両者の境界は、その非道徳行為を放置した場合に社会にどれだけの害悪がもたらされるか、つまり、社会の秩序が守れないくらいの悪影響が現れるかどうかで決まります。
「姦通罪」の場合で言うと、夫や妻の姦通(不倫行為)を放置すると社会の秩序が守れないくらいの悪影響が社会に発現するかどうかで判断します。
そして、見逃せないほどの悪影響はないであろうと判断できれば、個人の道徳心にまかせて、法律は介入しない方がよいのです。
なぜなら、法律が多すぎると社会生活が窮屈になりますし、また国家権力を肥大化させるからです。
法律と道徳の関係について、「法律は道徳(倫理)の最小限度」という言葉があります。
法律も道徳も社会秩序が平穏に保たれるための規範(ルール)ですが、道徳は人間の内面の問題であって外部から強制されません。
これに対して、法律はそれを守ることが国家によって強制されます。違反すれば一定の制裁を受けます。人々はその制裁の故に非道徳な行為を自制するのです。

「姦通=不倫行為」の話しに戻りますが、現在は「姦通罪」こそなくなりましたが、同様の行為を行った場合、法律上何の制裁、不利益もないか、というとそうではありません。
夫または妻に不貞行為があったときは、相手方はそれを理由に裁判上の離婚を請求することができる(民法770条)と規定されていますし、不貞の相手を含めて慰謝料の請求もできます(民法709条)。
つまり、刑事法的制裁はなくなりましたが、民事上の法的制裁は残されています。
全面的に個人の道徳心にまかせられているわけではありません。