2020年10月01日

李登輝氏が今年7月30日に亡くなった。国葬が9月19日にあり、それに併せて中華人民共和国の空軍機が威圧的な飛行を繰り返したというニュースも報道された。李登輝氏は台湾の元総統であり台湾民主化の父と呼ばれているが、親日家でもあり、司馬遼太郎氏の「街道を行く」の台湾紀行でも「私は22歳まで日本人だったのですよ」と述べたことも紹介されている。今回は、親日家であった李登輝氏にインスパイアーされて、私の留学先のバンクーバーで知り合った台湾の友人のことなどを綴ってみたい。

私の勝手な独断によれば「中国人」というのは、香港人と台湾人と中国(本土)人の三種類いて、それぞれ大きく異なっている。もちろん、個々人においてはそれぞれ個性があり、一括にすることはとても失礼なことであることは承知している。それぞれがどう異なると思うかはあえて言わないが、私が会った台湾人は穏やかで日本人である私には親しみやすい人が多かった。
バンクーバーで初めて会った台湾人は、マーク・ヤンさんという弁護士である。私が出入りしていたクラーク・ウィルソン法律事務所に所属して主として知的財産法を担当していた。あてがわれていた私の部屋に突然来て、日本語で「音質」と「音色」の意味の違いを質問されて面食らったのを覚えている。ヤンさんは、台湾生まれで少年の頃にカナダ、バンクーバーに家族で移住したということだった。私より数歳年上だったと思う。なぜ、日本語が喋れるかについては、祖母の影響と短期で日本に留学したことがあったと言われたと思う。一緒に食事に行ったり、ご自宅にも呼ばれてお伺いしたこともあった。ご自宅だったか、別の機会だったか忘れたが、その日本語を話せる祖母の方とお会いしたら、きれいな日本語で童謡を何曲か歌ってくれたのを覚えている。もちろん、私としては、過去に台湾が日本の植民地であった遺産ともいうべきものであることは感じて胸が痛かったが、さきほどの李登輝氏の言葉のように、本人としてはごく自然に受け入れているように思われ、むしろそちらの方が驚きだった。
もう1人は、ヤン先生の奥さんのユー・ミンさんである。このひとは、高校卒業して日本に移住した後、バンクーバーに移住した方で、ほとんど完璧な日本語を喋った。私の家内と仲良くなって、私の家内の名前は愛であることから、それぞれ自己紹介すると、I am Ai. I am You.
という変なものになるねというのが二人の定番の冗談だった。
それから、ブリティッシュ・コロンビア大学の日本法を担当していたステファン・ザルツバーグ教授の奥さんのジョイさんで、この方も台湾生まれで子供のときにバンクーバーに移住したということだった。お二人で日本に留学していたことから日本語に堪能で、バンクーバーでの生活に慣れるまで、色々とお気遣いいただいた。
その他、クラーク・ウィルソン法律事務所で勤務していた方で、わざわざダウンタウンにあるチャイナタウンの美味しい中華料理店に連れて行ってくれたり、ブリティッシュ・コロンビア大学の法学部生でランチに誘ってくれたりした。

バンクーバーに留学するまで台湾のことについては不勉強で知らなかったことが多かったが、日本に帰国して少し本を読んだりした。先に述べた「街道を行く」もその一つであった。そうしていると2014年に「KANO 1931海の向こうの甲子園」という映画が封切られた。戦前には、日本本土だけでなく台湾や朝鮮の高校からも甲子園に出場していたのだが、台湾南部にある嘉義農林学校野球部が準優勝したという実話を元に制作された映画である。このチームは日本人、本島人、客家(ハッカ)、アミ族、プユマ族の混成チームであり、それが甲子園出場を決め、甲子園でも大健闘をすることが感動を呼ぶ一因となっている。映画には、八田與一という台湾の水利事業の歴史の中では、また、日台の友好の歴史にとって、欠くことのできない人物も登場する。映画は台湾制作のものなので、八田與一を登場させるのは日本に対する大きな好意の現れなのだろうと思う。

ただ、このように台湾の方とは親しくお付き合いをさせていただいたのに、私はいまだ台湾に行ったことがない。IPBAという弁護士の国際大会も台湾で行われる可能性はほぼない(李登輝氏の国葬における隣国の対応をみれば明らかである)。コロナ禍で海外旅行は考えられない状況ではあるが、これが収まればぜひ行ってみたいと思っている。