2003年10月01日

僕のささやかな趣味の一つが競泳観戦である。なかでも日本人選手が国際試合で活躍し、新記録を打ち立てるのを見ると不思議なくらいにうれしく思う。
この夏に開かれた水泳の世界選手権で、北島康介選手が、100mと200mの平泳ぎで二つの金メダルを取り、なおかつ両種目で世界新記録を打ち立てたことには卒倒しかねないほどうれしく感じる。
目標を明確に掲げ、想像を絶するハードトレーニングを自らに課し、見事実現する姿には感心するほかない。

僕自身も中学高校時代に水泳部だった。とはいえ、中学3年のとき(1985年、あの阪神タイガースが優勝した年である。)にメドレーリレーの自由形泳者として市の大会で準優勝したのがせいぜい(他の3人が速かった)で、自分が泳ぐことにはあまり情熱がなかった。
ところが、中3のときに、水泳関係者のバイブル雑誌ともいうべき、「スイミングマガジン」を買いだしてからは有名選手の活躍を毎月報じる雑誌のとりこになった。
ほとんど「オタク」であるが、このエッセイを機に「日本競泳と私」について振り返りたい。

僕が中学生当時、最も有名な日本人選手は、平泳ぎの長崎宏子選手であった。
長崎選手は天才少女として彗星のごとく現れ、1984年のロサンゼルスオリンピックでメダル獲得を期待されたが、200m平泳ぎ4位に「終わった」。
僕の記憶と資料によれば、当時世界で対等に戦える選手は、ほとんど長崎選手しかいなかった。水泳日本は低迷期にあったようだ。
なお、このとき高校3年生の鈴木大地選手が100m背泳ぎに出場し、9位~16位決定戦で日本新記録を出している。4年後のソウルでの金メダルの萌芽がここにあったのである。

1988年の鈴木選手の金メダルはテレビの生中継で見た。実家で家族とギャーギャー言いながら見た。ライバルは予選で世界記録を出していたバーコフ(アメリカ)。それを鈴木陽一コーチと綿密に練った計画を決勝で実行し、バーコフをゴール手前で逆転、見事優勝した。
「スイマガ」を通じていつも応援している鈴木選手が何と金メダルを取ったのである。このことは僕に大きな勇気を与えてくれた。しかし、半年後の大学受験は全部滑った。

鈴木選手の金メダルをきっかけに、全国のスイマーが「自分にもできる」ときっと思ったであろう。このころから水泳日本が本格的に復活し始めた。
1989年には当時中学生だった千葉すず選手が200m自由形で中森智佳子選手を倒し、日本選手権を獲得した。大学浪人中の僕は新聞の切抜きを励みに勉強した。どうでもよいことだが、浪人中はなんと「スイマガ断ち」をしていたのである。

そして千葉選手は1991年の世界選手権の400m自由形で銅メダルを獲得した。また司東利恵選手は200mバタフライで銀メダルを獲得した。日本人選手が国際試合で複数のメダルを取ったことにも感動した。女子のバタフライでは、この夏の世界選手権でも、200mで中西悠子選手が銅メダルを獲得したが、女子バタフライは1972年のミュンヘンオリンピックの金メダリスト青木まゆみ選手以来の伝統であろうか、常に世界に挑戦できる選手がいるのである。

そして1992年のバルセロナオリンピックである。やはり真っ先に思い出されるのは岩崎恭子選手の金メダルであろう。岩崎選手はお姉さんの岩崎敬子選手と共に力を伸ばしつつあったが、代表選考会で好記録をマークし代表を決めた。しかし、金メダルとは驚きだった。
バルセロナの中継は夜中にやっていたため、大学のサークルの合宿中だった僕は、朝起きたら恭子ちゃんが泣いていた、という記憶がある。

その後、1996年のアトランタオリンピックは、バタフライの青山綾里選手らを擁する「史上最強」のチームとの前評判であった。確かにそれまでないほどの決勝進出者を出し、女子を中心に地力は確実に上がっていたようだが、メダルはゼロに終わった。
このとき千葉選手が「日本はメダルクレイジーだ」という趣旨の発言をしたことが物議を醸し出した。僕などは「昔から、調子が良いときも悪いときも心から応援していたのに、なんてひどいことをいうのか。」と悲しくなった。ほとんど「ストーカー」である。とはいえ、マスコミを通じて襲いかかるプレッシャーというのは想像を遥かに超えるものなのだろう。
関係ないが、この年、司法試験に合格する。

千葉選手のクールな発言以来、一時、僕自身の競泳に対する情熱は冷めたものの、2000年のシドニーオリンピックでは、アトランタで惜しいところで涙を飲んだ女子選手達が成長を遂げ、彼女達が中心となって活躍。メダルラッシュに沸いた。
中村真衣選手(100m背泳ぎ銀メダル)、田島寧子選手(400m個人メドレー銀メダルを取り、「めっちゃ悔しい」と言い放った)、中尾美樹(200m背泳ぎ銅メダル)、女子400mメドレーリレー銅メダル。

このシドニーでは北島選手がオリンピック代表に初めて選ばれ、100mで4位入賞を果たした。このとき同じ平泳ぎの代表選手だったのが林亨(あきら)選手である。林選手は入賞しなかったものの、このとき男子平泳ぎのバトンは林選手から北島選手に確実に手渡されたと言えよう。

というのも、林選手もバルセロナの100m平泳ぎで4位入賞している。これは「惜しくも」というべきことであった。林選手は当時高校生であったが、世界ランクトップレベルの記録を引っさげて出場、メダル獲得が大いに期待されていたのである。

林選手がメダル目前に迫ったことの功績は大きかった。
男子平泳ぎは日本のお家芸と呼ばれていた時期があったようであるが、ミュンヘンオリンピック100m金メダリストの田口信教選手以降も、高橋繁浩選手(1978年、200mで当時世界最高を記録。その後、不運にも泳法違反を指摘されて低迷し、引退したが、ルール改正を機に復活。ソウルで自己の日本記録を塗り替えた)、不破央選手(1986年世界選手権100m6位)、渡辺健司選手(ロス、ソウル、バルセロナ代表)など世界ランクに名を連ねる選手が活躍した。
林選手はこの流れを継承して、世界トップの目前まで迫ったのであった。

そんな林選手をジュニア時代から目標にし、追いつき、追い越せで力を伸ばしたのが北島選手であったというわけだ。
北島選手の金メダル、世界記録は、過去幾多の先輩達の努力、そして全国の競泳ファンの夢が結実した結果でもあったのである。
北島選手にはアテネオリンピックでの期待がかかるが、夢を託した後はじっくり見守りたいところである。
そして、また新たなスターが生まれるだろう。

競泳は比較的地味なスポーツであるが、オリンピックや世界選手権など大きな国際大会があると必ず脚光を浴びる(テレビ朝日の過剰な演出には辟易だが)。
競泳のレースは競走よりも単純にスピードが遅く、その駆け引きを味わうのにちょうど良い速さである。そして選手の成長過程や記録を知っていると、なおいっそう楽しみが増す。

僕の生活とは何の関係もなくところで努力し、活躍する選手達をこれからも追い続けたい。