2011年09月01日

健康維持とストレス解消のため、せめて少しは歩こうと思い、出勤の際、事務所最寄の地下鉄南森町駅の2つ手前、天神橋筋六丁目(通称「天六」てんろく)駅で降り、事務所まで歩くことにした。

天六の駅から地上出口を出て、天神橋筋の西側歩道を南に向かってとぼとぼと歩く。天神橋筋は片側2車線でクルマの行き交う大きな道路である。不動産賃貸のフランチャイズ店があったり、飲食の店があったり、会社の事務所があったり、看板を見ながら歩く。
そのうちJR環状線の高架をくぐると右手に大阪市北区役所がある。
この辺りから扇町(おうぎまち)と呼ばれる地域となる。
さらに関西テレビの社屋を右に見ながら歩き、同じ建物内にある「キッズプラザ」を過ぎると、そこから右手に扇町公園に入れるようになっている。扇町公園には広々とした広場があり西を見れば、阪急のビル群や赤い観覧車が見え都会的な風景が拡がる。
扇町駅で降りて梅田方面の職場に向かう人たちなのか、扇町公園内の石畳の通路は通勤する人の流れができている。

その通路の左手に新しい扇町プールがある。大阪に永く住まれている人たちは、ここにかつてコンクリート製で巨大なすり鉢状の観客席を備えた50mプールがあったのをよくご存じかと思う。扇町プールと言えば、むしろそちらを思いだされる方が多いのではないか。「フジヤマのトビウオ」古橋広之進さんが戦後間もないころ、世界記録を樹立し、日本中を沸かせた舞台であることは歴史として知っている。今は取り壊されて存在せず、そこが広場になっているのだろう。

僕も高校の水泳部時代、公式試合でその昔の扇町プールで泳いだことがある。1988年高校3年生のときの近畿大会で1500m自由形で出場した。今もそうかもしれないが、我が故郷の和歌山県は高校の数も水泳部の数もそれほど多くはなく、まして単にしんどいだけの1500mに出場する生徒は一部の本格派を除けばほとんどいなかった。
水泳部の自由形では僕より速い奴がいたので、誰もやろうとしない1500mに3年生になってからチャレンジすることにした。和歌山県大会のこの種目では毎年7人中6人くらいが近畿大会に行けたからである。
いざふたを開けると12人がエントリーしていて唖然としたが、それでもそれなりに真面目に練習した成果が表れたか結果は6位入賞だった。
近畿大会では確か和歌山県の5位を抜いた結果ブービー賞だったと思う。
「あと何メートル泳いだら受験勉強かな」と考えながら水をかいていたときの、青い水に日光が注ぎ込んでいる感じは記憶に焼き付いている。

そんなことを想い出したのは当時のスタート台が残されているのを見つけたからである。扇町公園を南に突っ切って扇町通に出る辺りに、古いプールのスタート台、1コースから9(?)コースが2つずつ、そのまま移設されてオブジェのように並べられている。

高校時代の自分はひどく内向的で、友達づきあいも大の苦手。楽しい高校生活を送る同級生たちを横目で見ながら、勉強するでもなく、部活に燃えるでもなく、友達と遊ぶこともなく、自分の中ではなんとも暗い3年間だった。
ただひとつだけ「これはやったな」と思えるのが扇町プールで1500m泳いだことだった。だからあの青い水の感じも鮮明に覚えている。

当時の僕はスタート台に上り不安で不安で仕方がなかった。1500m泳ぎきることの不安はもちろんのこと受験もそうだが、それよりも将来普通の人づきあいができるのかが一番の不安だった。思春期というのはそういうものかもしれない。
扇町プールのごく近所で将来働くことになるだろうと当時思いもよらなかったし、まして弁護士になるなど、ほんのひとかけらも考えたことはなかった。

今も残るスタート台をぼんやり眺めていると、高校生の僕に「そんなに不安がることはないで。何とかなるもんやで」と声をかけてあげたい気分にもなる。
そんなことを考えていると、高校生の僕が「飛び込んだら後は泳ぐだけやないか」と今の自分にエールを返してくれているような気にもなるのである。