2017年01月01日

ひとつはアメリカンクラブハウスサンド、もうひとつは電子書籍、というのが最近の私の流行りである。
前者についても、8枚切りのパンをいかに入手するのかとか、できあがってすぐ食べるよりも小一時間寝かせてソースが沁み渡ってから食べたいとか、言いたいことはたくさんあるのだが、今回はいまさらながらに導入した電子書籍の話しである。

それまで私は「本はやっぱり紙でしょう」と考えて電子書籍など邪道と切り捨てていたが、趣味(自転車)に関連して読みたいある本が電子版でしか発行されておらず、それをきっかけに電子書籍に手をだすことになった。
特定の本が読めればそれでよいので専用の電子書籍リーダーなど無用ということで、パソコンとスマホにkindleアプリをいれてそれで電子書籍生活をはじめた。
もともと私はきちんと座って読書するというようなことはせず、本を持ち歩いてちょっとした空き時間に読むとか、電車のなかで読むというような読書スタイルであって、特に近時はローラーをしながら読書ということをよくやっている。
ローラー、というのは自転車を固定して室内でこぐことができるようにするための器具で、これについては前にも書いたことがあるとおりである。(前回エッセイ「インドアの日々」ご参照)

退屈しのぎに映画をみたり音楽をきいたりしながらローラーをしているサイクリストは多いようだが、私はその一環で読書しながらローラーをしている。ローラーもできて読書の時間も確保できて一石二鳥というのはまさにこのことである。
新書にもいろいろあるが、昨今数多く出版されているような軽めの内容の新書であればザっとした読み方で1冊読むのに1時間から2時間程度であろうから、ローラーついでに読んでしまうにはちょうどいい。
なお、私の場合は心拍数が1分あたり150ちょっとくらいまでであれば本をよみながら運動することに支障はあまりない。

スマホで電子書籍をよみつつローラーというようなことをしてみたところ、上で述べたような「ながら」読書には電子書籍はじつに適していることがわかった。たとえば手にもってページをすすめる動作にしても、紙の本をめくるよりもスマホのタッチパネルで操作するほうが自転車にまたがった状態では便利である。
1頁あたり表示される文字数なども自分の好みに調整できるので、斜め読みというのか、ザッと視覚的に情報を取り込むような読み方をするのに大変都合がよい。
ローラーしながらの場合でなくとも、スマホさえ持ち歩いていればどこでも本を読むことができ、それ自体やはり便利であることは認めざるをえない。
また、クラウド上に書籍データが保存されるのでパソコンやスマホといった複数の端末で読書でき、たとえばスマホで120ページ目を読んでいるところで中断して、その後パソコンで読書を再開するときには自動的に120ページ目が開かれる。なくても別に困らないような機能ではあるが、あれば確かに便利であることは認めざるをえない。
よくよく思い起こせば電子書籍以外でもAmazonが、ジェフ・ベゾスCEOが仕掛けてくることのイチイチに私は屈服させられ続けている。注文すれば即日配送であるとか、梱包がどうとか、それまで私が「別にそんなサービスなくても困らないよ」程度に考えていたことが、やっぱり「ユーザーにとって便利なことは認めざるをえない」というようなことがじつに多い。多すぎるのだ。
また、書籍についていえば、販売部数が伸びないであろうちょっとマニアックなものになると大きな書店にいっても取り扱いがないことが多いが、紙でも電子でもAmazonであればたちどころに手に入る。

そのように電子書籍やAmazonをホメちぎってはみたが、やはり紙の本でよんだほうがいいような書物もあると思う。
山岡荘八の「徳川家康」全26巻のようなものは、電子書籍になっているかどうかわからないが、仮に電子書籍になっているとしてもやはり紙版で読むのがよかろうと私は思う。
ただ、ボリュームがあるから紙版でというわけでも必ずしもなくて、たとえば「GRIT やり抜く力」はその種の本としては頁数がかなり多いが、紙版ではなくて電子書籍で読むことにした。
自分のなかでいかなる線引きになっているのかを明快に言葉で説明することは少し難しい。
ほかに電子書籍で読んでいる本としては、自転車やランニングに関する本、種々雑多な新書、冨山和彦氏(元・産業再生機構代表取締役)の著書、伊丹万作のエッセイいろいろ(電子書籍では無償配布されている)、毎度似たような内容の町田康の小説、行動経済学や統計学をちょっとかじったような本、等々である。

いずれにしても、生活のちょっとした隙間に読書をするには電子書籍はたいへん便利である。1日1冊1ローラーというほどではないが、それくらい重宝している。