2006年05月01日

私は大阪弁でいうところの「イラチ」である。
標準語でいうと「せっかち」というところであろうか。
しかし、「せっかち」という言葉は「イラチ」よりも少しよそゆきのニュアンスがあるが、「イラチ」の内からわき上がるような衝動を伝えきれていないように思う。

もう少し、説明というか弁解をさせてもらうと、「イラチ」と言っても常にいらいらして怒りっぽいというのではない。
むしろ、どちらかと言えば性格はおおらかで、あんまり細かいことは気にしないほうだし、例えば子供に感情的に怒るということは皆無である。
ただ、何もせずにじっとしている、時間を無駄に過ごしているという状態が耐え難いのである。

例えば、カップ式の飲み物の自動販売機。
昔は、全部出終わるのを待ちきれず、カップを取った後に「チョロチョロ」という悲しい音が聞こえて来ることもしばしばであった。
私のような人間が多いと見えて、最近は全部出るまでは取り出し口が開かない自動販売機がほとんどである。
文明の進歩により自分のイラチと戦わなくともよくなったことは有り難いことではあるが、機械の「ピッピッピー」という悠長な音を聞いていると、「2秒は損させられたな。」と悔しく思ってしまう。
この自販機問題は、夫がまだ司法試験のための勉強仲間だったころからよく目撃していたそうである(そういえば夫は、現在私のイラチはお茶を入れるときに急須を傾けすぎて注ぎ口以外のところからお茶がこぼれ出るという形に転化していると指摘している。)。

人が見ているところではできるだけ我慢するが、エレベーターの「閉」ボタンを押すのも大好きである。
しかし、あまり必死で押すのも乗って来た人に失礼だし、いい大人なので、人がいるときはできるだけ「あら、そんな便利なボタンがあるんですか?確かあったんですね。みなさまもお急ぎでしょうし。」というふうに乗客が全て落ち着いたころに、まるでいやいやであるかのように装って押すよう努力している。
困るのは外国に行った時である。
「open」のボタンはあっても「close」のボタンがないところがあるのだ。
これは辛い。
大げさに言えば、片腕が使えないかのようなイライラ感がある。

電車の待ち時間も結構イライラするものである。
一度、出勤途中の駅で、待ち時間を利用して不要なレシートを財布から選んで捨てているところを事務長(注・非常に上品な女性である。)に見られて「何をしてるんですか?」とあきれられてしまった。
よく考えてみるととても恥ずかしい行動である。気をつけたい。

イラチへの対処法としては、文庫本や雑誌を持ち歩くことである。
これで無駄な時間というのはほぼなくなる。
しかしそこはイラチの悲しさで、カバンから出したり、前に読んでいた頁を探す時間が惜しい。
ふと気が付くと、読みかけの文庫本の頁に指を入れて持って歩いている自分がいる。
このエッセイを書くにあたって、ほかにそんな人がいないか街で探して見たが、本に指を挟んでいる人はおろか本を手に持っている人さえ見当たらなかった。
ショックである。
これもやめないといけないのだろうか。

しかし、イラチの効用ももちろんある。
無駄な待ち時間が嫌いなために私の料理のスピードはものすごく速い。
なぜなら、家に帰る道々、どの手順で料理すれば待ち時間を最小にして料理が完成するかを考えるからである。
例えば、まず米を研いで吸水させている間に、野菜を茹でる湯を沸かし、出汁をとり、肉に下味をつけ、その間に野菜を洗い・切り、炊飯のスイッチを入れ、野菜を茹で、テーブルセッティングをし、最後に肉を炒め・・・という具合である。
繊細な美しさには欠けるが、家庭料理としては一定のレベルには達していると自負している。

気をつけなければならないのは、心の問題である。
話を聞く時間を短くしてしまうと、後で思わぬしっぺ返しを食らうこともある、と思う。
先日も自宅のローンの件でローン会社の担当者の方から電話があり、すごくせかせかした口調で「○○の件は、こちらにお任せいただけるというのでよろしいんですね。」と、こちらが同意していないのに何度も言われてむっとしてしまった。
担当者の方が自分の仕事を迅速に処理することしか考えていないように感じてしまい、不信感を抱いてしまった。その後なんとなくコミュニケーションがとりたくなくて、必要最小限の連絡しかしていなかったところ、決済直前になって結構なトラブルが発生してしまった(最終的にはうまく解決したが)。
迅速に処理することももちろん重要だが、相手の納得も得られないのに形式的に話を進めても絶対どこかでほころびが出てくるよなあ、と自分の仕事でももっと気をつけよう、と思った。
ただ、職場の後輩に言わせると、離婚や相続の問題を抱えている人、破産をしようかすまいか迷っている相談者には、私は人が変わったかのように気が長くて、とても驚いたそうである。
それは、相手の迷いや気持ちを受け止める時間は、トータルで見ると決して無駄な時間にはならないことを経験上学んでいるため、私の「イラチ魂」には、抵触しないからだと思う。