2015年12月01日

前回の私のエッセイで、NHKの朝の連続ドラマ「マッサン」が船場と大変深い関係があることについて書きました。
2015年9月28日からは「あさが来た」が始まりましたが、実はこのドラマやその登場人物もこの船場と大いに関係があるのです。

このドラマの原作は、1988年に出版された、古川智映子著「小説土佐堀川-女性実業家広岡浅子の生涯」ですが、これの主人公広岡浅子(ドラマでは波瑠が演じる白岡あさ)は大同生命の創業者、日本女子大の創設者で、実在の人物です。
今も四ツ橋筋肥後橋の南詰めに大同生命の本社ビルがあり、この場所が元々浅子が嫁いできた両替商・加島屋(ドラマでは加野屋)があったところです。
正確に言うと、この場所は「船場」ではありません。わずかに外れています。「船場」は西横堀川(今は埋め立てられその上が阪神高速道路)より東とされていますが、大同生命はその元の川のすぐ西側に位置します。
しかし、江戸時代、堂島の米市場やその周辺の蔵屋敷等を商圏としてビジネスを営んでいた点では、船場内、とくに今橋あたりにあった大手両替商とは同業者であり、「十人両替商」の一角を占める豪商でした。
しかし、明治維新となり、旧態の両替商のビジネスモデルは崩壊し、大部分の両替商は経営破綻して姿を消していきました。その中にあって、浅子が奮闘した加島屋と鴻池善右衛門の2軒だけはその才覚と努力によって現在もその系統を維持しています。

浅子は経営不振の加島屋を立て直すために寝食を忘れ、子づくりも忘れて懸命に努力し、九州の炭鉱開発(加島炭鉱)に取り組んだのをはじめ、1888年(明治21)には加島銀行を設立、1902年(明治35)には大同生命を設立するに至るなど、近代的な金融企業としての基盤を築きました。それ以外にも、綿花の輸入、紡績事業(ユニチカの前身、尼崎紡績)等にも事業を拡大、加島屋は大阪の有力財閥として成長していきました。夫信五郎(ドラマでは玉木宏演じる新次郎)の理解があったとは言え、これは浅子の絶大な功労の結果であったと言って過言ではありません。
経済界だけでなく、社会貢献事業も手がけ、日露戦争下の愛国婦人会の代表、大阪YMCAの創立功労者でもあり、1901年(明治34)には日本女子大学校(現日本女子大学)を創立しました。
まさにスーパーレディを演じ尽くした人物でした。

他方、浅子の姉、春(ドラマでは宮崎あおい演じるはつ)も船場と深い縁があります。
春は、船場の今橋にあった両替商天王寺屋(ドラマでは山王寺屋)に嫁ぎました。天王寺屋は大阪で最初に両替商を始めた老舗で、もちろん「十人両替商」の中でも有力な店でした。
現在船場今橋通にある開平小学校の場所が当時天王寺屋が店を構えていたところで、南北の八百屋町筋に面しており、その向かい側にやはり「十人両替商」の1軒、平野屋がありました。この両家の当主の名がどちらも「五兵衛」、つまり天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛だったことから、現在今橋通と八百屋町筋の交差点付近(中央区今橋1丁目)の歩道上に「天五に平五 十兵衛横町」と刻まれた石碑が建っています。大部分の通行人にこれの意味はわからないでしょうが。
ちなみに私は毎日のようにこの前の今橋通を通っています。
その押しも押されもせぬ有力両替商、天王寺屋も明治維新の時代の変化に対応できず、ほかの多くの両替商と同様に破綻の道へ堕ちていきました。そして、ここに嫁いだ浅子の姉春も店の没落とともに以後不運な人生を歩むことになります(ドラマではそれなりに幸せだったように描かれていますが)。
もっとも、原作では天王寺屋や春についての記述はほとんどなく、史実としても天王寺屋の末裔のことはほとんど伝わっていないようです。

もう一人、「あさが来た」で存在感がある人物、かつ船場とも深い関係のある人物が五代友厚です(なぜかこの人物はドラマの中でも実名です)。
船場内、土佐堀通と堺筋の交差点にある大阪証券取引所ビル(大阪取引所があるビル)の前に五代友厚の大きな銅像が建っています(大阪商工会議所の玄関先にも建っています)。大阪の経済界の大恩人です。
ドラマは原作(史実)とはかなり違っていますが、五代が広岡浅子の好奇心に刺激を与え、彼女の潜在的エネルギーを発露させ続けた人物だったことは間違いありません。
五代友厚はもともと薩摩藩士で明治政府の要職についていましたが、その器には収まり切れない、ずば抜けたスケールと才覚を持っていた人物でした。官を持して大阪のビジネス界に身を投じることを決した五代の驚嘆すべき活躍の数々には身震いするくらいの感動を覚えます。東の渋沢栄一、西の五代友厚と言われ、日本の近代商工業の礎石を築いた立役者の一人です。
この人物がいなければ、明治以降の大阪の経済発展はどれだけ矮小化し、遅滞したかと思うと、大阪人はもっとこの人物やその業績を認識、評価し、感謝の念を持ってもよいのではないかと思うのは私だけではないと思います。
五代が関わった事業や貢献の一端を列挙すると、金銀分析所、堂島米商会所、大阪株式取引所(現大阪取引所)、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現大阪市立大学)、大阪商船会社(現商船三井)、神戸桟橋会社、関西貿易社、阪堺鉄道、共同運輸、日本郵船、堺紡績所、鉱山業(弘成館)、製藍業(朝陽館)、製塩業、等々。
五代は政商とも言われ、必ずしもすべての人に好感をもたれていたとも言えませんが、悪いことをしていない証拠に、彼は若干50歳で没したとき、まったく蓄財がなかったばかりか、借財が少なからずあったということです。また、その葬儀には4800人もの参列者があったと言われています。
五代の墓は今大阪市設南霊園(大阪市阿倍野区)にあります。
私は過日、見学し、感謝の念を捧げてきました。