弁護士のエッセイ

2017年06月01日
邪馬台国論争に対する素朴な疑問

私は、昔から、邪馬台国論争について、とても初歩的な疑問を持っているのですが、未だにその疑問が解消されないでいます。

疑問の一つ。学者、マスコミを含め一般的に、邪馬台国はヤマタイコクと読まれていますが、ヤマトコクと読むのが正しいのではないかという極めて素朴な疑問です。魏志倭人伝には、卑弥呼死亡後、国が乱れたため、台与(壱与ともいわれています)という13才の女性を女王にしたことで国が治まったということが書かれています。この台与を一般にトヨと読んでいます。台与の台はトと読むのに、邪馬台国の台をタイと読むのはどうしてなのかという素朴な疑問です。台がトならば、邪馬台国はヤマトコクではないのかと思うのです。

漢字が日本に伝来したのは5世紀になってからですから、魏志倭人伝が書かれた3世紀末、日本には漢字は伝わっていませんでした。卑弥呼の使者は、漢字で自らの国や王の名前を漢字で書くことはできなかったわけです。魏が卑弥呼の使者のいう発音に、本来表意文字である漢字を表音文字として当てたと思われます。
邪馬台の台は、旧字体の臺という字です。台与の台も臺とされていますが、台与の台は臺ではなく壱の旧字体である壹であるとの説もあります。しかし、台与をトヨと読むのだから、邪馬台もヤマトと読んでもおかしくないはずです。
また、ヤマタイという発音は、どこかスキタイやアルタイなどを思い出し、日本的な響きでないような気がします。この点、考古学や言語学の人たちに、もういちど魏志倭人伝の原典や、その当時の中国の資料や発音を研究してもらって、当時中国では、台をどのように発音していたか、明らかにして欲しいと思っています。

もう一つの疑問。これも素朴な疑問です。それは、ヒミコというのは人名ではなく、尊称であるヒメミコあるいはヒメノミコトではないかのという疑問です。ヒメミコは、皇女を意味していますし、ミコは、まさに巫女であり、シャーマンです。古代、吉凶を占って豊作を祈り、天災や戦を占っていて、祭りごとがまさに政治でした。卑弥呼の使者が魏に朝貢したとき、使者は、何々のヒメミコの使いだと言ったので、魏は尊称であるヒメミコをヤマトの女王の名と誤解したか、何々のヒメミコの何々の部分を省略したのではないでしょうか。ヒミコという音の響きは、人名の音の響きではない気がするのです。

ヤマトとは、奈良盆地、大きくは奈良県、もっと大きな概念では日本そのものを言いますが、最狭義のヤマトは、奈良盆地南東部の桜井市纏向(まきむく)付近をいいます。纒向付近が古くからヤマトという地名であったことは、いろんなことから言えます。たとえば纒向の北に、大和神社(おおやまとじんじゃ)という三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)と並ぶ古い神社があります。あまり知られていない神社ですが、この大和神社は、第10代崇神天皇が建立したものとされており、この地域がヤマトの地であったことを示しています。纏向最大の古墳であり、卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(はしはかこふん)の主は、倭迹迹日百襲姫命(ヤマト トトヒ モモソ ヒメノミコト)です。この墓の主は、ヤマトのヒメミコであり、纏向付近が初期のヤマトの地であることは明白です。

邪馬台国が魏に使いを出したのは西暦238年です。3世紀半ばというと、日本はまだ弥生後期で、古墳時代のはしりのころです。まだまだ生産性も低く、富の蓄積ができていなかったころに、大陸まで数十名の奴婢を連れて使いを出すには、それ相応の財力、通過国の協力体制、造船や航海術、地理的知識、韓国などとの交流、中国政治情勢の情報収集能力など、相当な権力基盤が必要です。
纏向は、3世紀半ばに、大規模な前方後円墳を造営できる程度に権力集中が完成しており、近年、JR纏向駅近くの遺跡発掘で大規模な建物群などが発見され、出土物から全国からの物産が集まっていたことが判明しています。纏向は、弥生後期の集落や村とは質的に異なる統一国家の首都であったといえ、魏に使いを出す能力があったことがうかがわれます。
我が国には、纏向付近以外にもヤマトの地名を持つ地域があるようですが、纏向以外のヤマトには、大きな古墳などの遺跡もなく、魏に使いを出すような権力や財力があった地域とはとても思えません。

箸墓古墳の主とされる倭迹迹日百襲姫命(ヤマト トトヒ モモソ ヒメノミコト)のトトヒの語源は鳥が飛ぶことで、神が乗り移る憑依の様を、モモソとは百十のことで偉大であることを意味しており、ヒメノミコトは高貴な巫女を表わすと解されています。ヤマト トトヒ モモソ ヒメノミコトとは、ヤマトの国の神が乗り移った偉大なる皇女を意味しているのです。魏志倭人伝に、神がかり的で、鬼道で人心を迷わすと書かれている卑弥呼像に近いものがあります。

箸墓古墳は、大規模な前方後円墳としては日本で一番古い古墳のひとつですが、従来の年代測定では4世紀前半に造られたとされていました。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとすると、卑弥呼が魏に使いを送った西暦238年から100年後に箸墓古墳が造られたことになり、時期が全く一致しません。これが箸墓古墳卑弥呼説の最大の難点でした。しかし、最近の科学的年代測定によって、箸墓古墳は3世紀半ばに造られたという説が出てきました。そうすると、箸墓古墳卑弥呼説に大きな矛盾は無くなります。

私は、邪馬台国はヤマト国、卑弥呼はヒメミコではなどと、恥ずかしくてとても人に言えなかったのですが、最近では、学者やマスコミが、いまだにヤマタイコクと呼称し続け、ヒミコを固有名詞として使っていることに、本当にこれでいいのかと思うようになっています。

邪馬台国がどこにあったかを決めるのは、最後は物証です。最も証明力がある物証は、なんといっても魏が卑弥呼に与えたという「親魏倭王」の金印です。
この金印が箸墓古墳あるいは纏向古墳群の中に眠っているかもしれません。この金印が、もし纏向で発見されれば、邪馬台国論争に終止符が打たれるでしょう。そして、古事記・日本書紀の神話の時代、大和政権を経て現在の日本まで、一本の道筋で歴史が繋がることになります。生きているうちに、この論争に終止符を打ってほしいものです。

弁護士 片井 輝夫