弁護士のエッセイ

2018年12月01日
船場・わが町 その6 船場の商業と商人(3) 繊維の町・船場

1 船場経済の特徴

船場は元々豊臣秀吉によって造成、開発された城下町です。全地域に一定の区画が施され、多種多様な商業、商人が進出し、また積極的に誘致されました。
江戸時代には、中之島・堂島かいわいに蔵屋敷や米の取引所が設けられたことから、経済活動が活発になり、両替商(金融業)が発達し、全国の富が船場に集中した時代もありました。
しかし、製造業は発展しませんでした。工場から煙が出たり機械の稼動音が町に響くことはなく、工場労働者が集団で出退勤する風景もありません。
薬種商や後の製薬会社も船場に製薬工場をもっていたのではなく、輸入や仕入れ商品の流通だけを担当していました。
昔の商業、流通業は小規模で多種多様であったためか、船場でもメジャーな業種といえば、すでに述べた金融業、薬種業と、今回述べる繊維関係が数少ない特徴的な集積業種と言えると思います。
そのほかに、昔から、雑貨品(輸入品を含む)の卸し小売り店(「小間物屋」という言い方もあります)も多くありました。これも船場の特徴的商業の一つと言えます。但し、総体的に小規模で、間口4間、奥行き20間、80坪の店舗が標準になっていました。

なお、船場のみならず、近代大阪の経済を振り返るとき忘れてはならないこととして、五代友厚という人物(北浜の大阪取引所前に銅像が建てられています)とその数多くの功労がありますが、それについては、このシリーズの「船場・わが町その2」で記述していますので参照してください。
2019年には五代友厚を主人公とする映画も上映される予定です。

2 近江商人の活躍と伊藤忠・丸紅

「近江商人」が船場にやってきた
船場には近隣各地から商人が進出してきましたが、いわゆる「近江商人」もその一部を占めます。
1810年(文化7)、本町通に近江五個荘出身の外村(とのむら)与左衛門が呉服織物問屋を開店し、同年、同じ本町通に稲西屋が開店、近江八幡の西川仁右衛門も彼らに続き、次々に本町通に軒を連ねるようになりました。呉服の扱いが多かったようです。
1871年(明治4)に小泉重助、1872に伊藤忠兵衛、1874年(明治7)に市田弥三郎、阿部市郎兵衛、翌1875年に外村与兵衛がそれぞれ大阪に店を出しています。
明治時代、近江商人は大阪で大きな存在感をもち、大阪の繊維業界を席巻しました。
同時に、彼らの生活態度や質素と勤勉の気質を大阪に植え付けた功労も見逃せません。

伊藤忠商事・丸紅
1872年(明治5)、初代伊藤忠兵衛が本町2丁目の本町通に呉服太物商(近江麻布)、「紅忠(べんちょう)」を開業しました。
呉服問屋といえばそれまで伏見町でしたが、忠兵衛は御堂さんに近く地価も安い本町に本拠を置きました。開店と同時に店法を定め、会議制度の導入や高等教育を受けた学卒社員の採用、保険制度の導入といった画期的な試みを次々と実施し、旧弊な商慣習を色濃く残す船場商人を驚かせました。
1874年(明治6)、「伊藤本店」と改称。京都に染呉服卸問屋「伊藤商店」、大阪に羅紗輸入の「伊藤西店」、綿糸卸商「伊藤糸店」などを開店、1908年(明治41)、2代目忠兵衛のとき、多角化した店を伊藤忠兵衛本部に統合、1918年(大正7)には、内地織物を扱う「伊藤忠商店」(本店・京都店)と貿易を扱う「伊藤忠商事」を設立するに至ります。
1921年(大正10)、貿易部門と海外店を分離独立させ「大同貿易」を設立。伊藤忠商店は本家の伊藤長兵衛商店を合併して「丸紅商店」としました。
1941年(昭和16)、戦争が進み、企業統合が強制され、丸紅商店、伊藤忠商事、鉄鋼商社の岸本商店が合併し、「三興」となり、1944年(昭和19さらに呉羽紡績などを合わせて「大建産業」になりました。
戦後これが解体され、「丸紅」、「伊藤忠商事」、「呉羽紡績」などが分立することになります。

3 紡績業の発展と船場の繊維商社の活躍

1882年(明治15)、「大阪紡績株式会社」(後の「東洋紡」)が大正区で日本初の紡績工場の操業を開始しました。以来、日清戦争・日露戦争、第一次世界大戦を経て、綿紡績業は大阪において大発展し、やがて日本の基幹産業となり、日本の産業革命の先駆けとなりました。そして、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれる大工業都市に変貌しました。
これらの動向はもちろん船場の経済にとっても大きなビジネスチャンスをもたらしました。。紡績業の原材料である綿花の輸入や流通、綿糸・綿製品の輸出や流通など、繊維関連の取引が急増することになり、それらを扱う業者が続々と誕生しました。
中でも、「関西五綿」といわれる、伊藤忠商事、丸紅、東洋綿花(現在豊田通商)、日本綿花(現在双日)、江商(現在兼松)は、綿花の輸入と綿糸・綿製品の輸出を業としました。
また、「船場八社」と呼ばれる、八木商店、又一、岩田商事、丸栄、田附、竹村綿業、竹中、豊島は有力糸商でした。
そのうちのいくつかの会社を紹介します。

東洋綿花(トーメン)
1920年(大正9)、三井物産の綿花部(30%の売上)が独立。2006年、豊田通商に事実上合併されました。高麗橋にあった建物跡地は三井ガーデンホテルに。移転した三越東のビルも、現在超高層マンションとなっています。

日本綿花
1982年から「ニチメン」、2003年(平成15)、日商岩井と合併し「双日」。
1892年(明治25)設立。当時四大紡、摂津紡、平野紡、尼崎紡(後に3社合併し大日本紡)、天満紡(後に大阪合同紡と合併し、現在は東洋紡)が発起人となって成立された綿花専門商社。

江商
1891年(明治24)設立。一時期は関西五綿の最右翼。その後、多角化や海外取引拡大の失敗、商品相場による損失などにより経営悪化。1968年(昭和43)、「兼松」と合併し、「兼松江商」に。

八木商店
1893年(明治26)開業。1918年(大正7)会社設立。泉州紡績、摂津紡績、大阪紡績などの国産綿糸を主として取り扱い、下村紡績所(後の浪速紡績)の経営にも当たりました。1943年(昭和18)社長になった杉道助の祖父は、吉田松陰の実兄にあたり、松陰の血を引きます。同年、「八木株式会社」に商号変更。1947年(昭和22)、「株式会社八木商店」に商号変更。1989年(平成1)「株式会社ヤギ」に商号変更。

4 丼池筋の繊維問屋街

「丼池筋」(どぶいけすじ)は、三休橋筋と心斎橋筋の間にあり、地名の由来は、付近に芦間(あしま)の池というどぶ池があったからと言われています。
第二次世界大戦前は高級家具問屋街として知られていましたが、空襲で全焼し、戦後は本町の繊維問屋街がこの地域に延伸してきました。やがて、繊維製品の現金取引の卸小売りで繁栄し、丼池筋や北久太郎町・北久宝寺町・南船場あたりには1000を越える中小の繊維卸問屋がひしめき、巨大な「丼池の問屋街」が形成されました。(繊維街としてはもう一カ所梅田にもできました。)
地方からの仕入れ客が押し寄せ、配達のトラックが数珠つなぎに徐行し、警笛の騒音が町中に響きわたりました。
しかしその後、日本全体における繊維産業の地位低下と、流通経路の短縮化や多様化が進むにつれて問屋という存在価値が低下し、それに対応できなかった丼池や船場の繊維産業も衰退していきます。
昭和45年(大阪万博の年)、船場の街を南北に二分する「中央大通り」と「船場センタービル」が建設されました。丼池問屋街はこのビルに入りましたが、それを機に箕面市の船場繊維卸商団地に移転した繊維問屋も多く、街も業者も二分されてしまいました。これにより、街としての業種の集積効果は低下することとなりました。

船場センタービルは、1970年(昭和45)、万博に間に合わせて建設されました。阪神高速や中央大通の設置で立ち退きとなった唐物町、北久宝寺町、農人橋詰町、両替町などの問屋街の移転先とするのが目的でした。高架に阪神高速道路、高架道路。橋脚部に船場センタービル、地上に中央大通、地下に地下鉄中央線が走っています。
「船場の長城」といわれる延べ17万㎡の船場センタービル、地下2階、地上2~4階、10棟東西930mのビルの中には、現在繊維問屋のほか、ブランド店、婦人服、かばん、くつ、家具、宝飾、呉服、飲食店、雑貨など約800の店が雑多に並んでいます。

綿業会館
東洋紡績(現東洋紡)の役員だった岡常夫氏の寄付によって、1931年(昭和6)に竣工、1932年(昭和7)に開館されました。日本綿業界の交流の場として利用されています。総工費150万円は同じ年に竣工した第3代大阪城天守閣と同額と言いますから、いかに贅を尽くした豪奢な建物だったかがわかります。設計は日本近代建築の先駆者的役割を果たした渡辺節で、若き日の村野藤吾も関わりました。外観はアメリカンボサールと呼ばれる様式。天井や壁などには豪華な装飾が施され、部屋ごとにイギリス式やフランス式など空間の様式が異なります。当時から井戸水による冷房を行っていました。
大阪の迎賓館としての役割も果たしています。満州事変の調査に当たった「リットン調査団」も立ち寄りました。芳名録には昭和の宰相吉田茂らの名前も残っています。
戦前の日本の近代化建築の傑作であり、三休橋筋のランドマークにもなっています。2003年、国の重要文化財に指定されました。

5 堺筋は「百貨店通り」に

三井呉服店から三越百貨店
必ずしも繊維産業とは言えませんが、1673年以来、江戸・本町に呉服店・越後屋を開店していた三井家が、1691年(元禄4年)大坂に進出して、高麗橋1丁目に両替商と呉服店を開設しました。近くには鼈甲店、紅白粉店、鏡店などがあり、船場の娘たちはここで嫁入り道具を揃えたと言います。
1837年、大塩平八郎の乱で大坂店は全焼しましたが、3年後に復興しました。
明治になって、高麗橋3丁目、さらに高麗橋2丁目(堺筋角)に移転し、「三越百貨店」として、2005年(平成17)まで営業を続けました。明治44年(1911)には飾り窓付き2階建て洋風建物(木造30m)が完成し、大正6年(1917)には当時最大のルネッサンス式建物(地下1階地上7階建て鉄筋コンクリートつくり)の新館が開業し、堺筋の顔となった時代がありました。

白木屋呉服店
これも今は船場から姿を消した百貨店。現在の東急百貨店につながります。1622年江戸で出店したあと、1920年(大正9)大阪に進出。阪急梅田駅にテナントとして入店し、翌年に堺筋に地上9階建ての大阪店を開店しました。日本で最初にネオンサインを点灯したビルです。
1932年(昭和7)、大阪店は閉鎖されました。
堺筋は、ある時代、三越、白木屋、高島屋、松坂屋が建ち並び、「百貨店通り」の時代がありました。

6 船場を知るには「船場ガイドブック」

これは船場の情報誌として、船場倶楽部・愛日地域活動協議会から毎年発行される冊子で、船場のいろんな施設や店舗に備置され、誰でも無償で入手することができます。地図もあり、わかりやすくハンディで、大変役に立つ冊子です。当ホームページの記事のネタ本の一つでもあります。
ぜひ、一読されたうえ、手元に置いておかれることをお勧めします。

弁護士 梅本 弘