弁護士のエッセイ

2018年02月01日
船場・わが町 その5 船場の商業と商人(2) 薬の町・道修町

薬の町・道修町の歴史
「道修町」は「読めない地名」としても有名ですが、「どしょうまち」と読みます。
前回の「両替商」は商人というよりむしろ金融業ですが、船場が商業の町として最初に存在感を示したのは、この道修町の「薬種商」です。
江戸時代から薬種問屋の町として知られ、今も一帯に薬品会社の本社や事務所が集中し、独特な雰囲気をかもし出しています。
はじまりは、堺の豪商だった小西吉右衛門が徳川二代将軍徳川秀忠の命を受け、薬の原料を扱う薬種商を1635年(寛永12)当地で開業したことからです。その30年後には100軒の薬種商がこの街に集中するようになり、「道修町薬種仲買株仲間」が組織されました。
1722年(享保7)以降、幕府は、長崎に入った唐薬(輸入薬)をはじめ国内外から集まる薬の原料や唐薬・和薬を全部大坂道修町に持ってこさせ、公認した124軒の仲買人にそれらを鑑別、計量、価格決定をさせた上で、独占的に全国に卸させることにしました。「道修町薬種屋仲間」という名は1735年「道修町薬種仲買仲間」となりました。
この株仲間に入るには道修町1~3丁目に店を持つことが条件だったため、道修町への薬種商の集中がさらに促進されました。
道修町(船場)の北側には土佐堀川の港である「北浜」があり、東側には東横堀川が流れているという水運の至便さにも支えられていました。薬種商は薬の原材料などを海外から入手する一種の貿易商社でもあったからです。
大正時代、幅員の狭い道修町通りを少しでも広く使うため、軒を切って道路を拡張する「軒切り」が行われました。また、地道だった路面に木煉瓦を敷き詰めた結果、以後往来が格段に便利になりました。
第一次世界大戦の頃、それまで洋薬の開発に努めてきた道修町は需要が急増し、その面でも活況を呈するようになりました。さらに、昭和にかけて、個人商店から会社組織に変更する店も増え、住み込みの丁稚制度から通勤する従業員へという変化も現れました。
なお、道修町通の堺筋近くに、当地における薬種業にまつわる歴史その他多くの資料が「くすりの道修町資料館」に展示されています。

道修町の街並み
道修町通は、「大大阪」と言われた昭和初めから太平洋戦争が始まる昭和15年頃まで、塵埃と喧噪に満ち、活気にあふれていました。近くへ来ただけで薬の匂いが漂い、荷馬車、肩曳車、自転車、リヤカー、丁稚車などで始終交通渋滞、一般人は近寄りがたい雰囲気で満ちていました。堺筋は中央に市電が走り、左右の車道は、バス、人力車、荷馬車、肩曳車が往来していましたが、そこから、俵(ひょう)、ドンゴロス(麻袋)、叺(かます、目のつんだ厚手の麻袋)などをいっぱい積んだ荷馬車や肩曳車が道修町通に入っていきました。それらの荷下ろしや荷積みで道修町通は通行も困難な状態になっていました。

道修町の御三家
道修町の製薬会社の中で、武田、田辺、塩野義はその歴史の古さから、「道修町の御三家」と呼ばれていました。
「武田薬品工業」は1781年創業。会社設立は1925年(大正14)。旧本社ビル(武田薬品工業道修町ビル)は1928年(昭和3)に建築され、橙色の気品のある珍しいタイルを使用しています。
また、ここに財団法人武田科学振興財団が運営する「杏雨書屋」(きょううしょおく)が置かれ、東洋医学書の一大文庫となっています。
「田辺三菱製薬」は、2007年、田辺製薬と三菱ウェルファーマが合併してできた会社です。最初の「田辺製薬」は、初代田邊屋五兵衛が1678年(延宝6)土佐堀に薬種問屋を創業したのが始まりです。道修町の現在地に店舗を構えたのは1855年(安政2)、11代田邊五兵衛のときでした。
「塩野義製薬」の創業は1878年(明治11)、会社設立は1919年(大正8)です。
「大日本住友製薬」は、2005年、大日本製薬と住友製薬が合併してできた会社です。「大日本製薬」の始まりは、1897年(明治30)、有力薬業家21人が設立した「大阪製薬」が翌1898年(明治31)、大日本製薬合資会社を合併して、社名を大日本製薬株式会社と変更したことに始まります。

小西儀助商店
堺筋に面して伏見町通から道修町通の間、黒漆喰塗りの20間にわたる高い塀と漆黒の木造家屋が独特の存在感を呈しています。これは「コニシのボンド」で有名な「コニシ株式会社」で、1976年(昭和51)にその商号になる以前は「小西儀助商店」、やはり薬種商でした。
創業は1870年(明治3)。1874年(明治7)から薬の小売りを始め、1876年(明治9)には洋酒製造を開始、混合白葡萄酒やリキュールを販売しました。
1884年(明治17年)に「朝日麦酒」の製造販売を開始しました。その後ビールの製造からは撤退しましたが、その商標や各種権利は現在の「アサヒビール」に受け継がれています。
1888年(明治21)、「赤門印葡萄酒」の製造販売を開始しました。そのときに丁稚奉公に入ってきたのが、サントリー創業者の鳥井信治郎。釣鐘町の両替商の二男で、成績優秀で北大江小学校を1年早く出て、大阪商業学校を卒業しました。儀助から直接洋酒の作り方を伝授され、ブレンド技術を身につけました。
現存する社屋は、1903年(明治36)、2代目小西儀助が3年の年月を費やし、敷地315坪、3階建て、3棟、土蔵造りの商家として建築しました。正面南側に店舗棟、奥に居住棟を構える表屋造(おもてやづくり)で、敷地奥には3棟の土蔵が並びます。1945年(昭和20)の大阪大空襲の災禍も免れ、ほぼ昔の姿で残存しており、1994年(平成6)まで同社の本社でした。今もときおり見学会が催されています。

少彦名(すくなひこな)神社
堺筋から道修町通を西に少し入ったところに、「少彦名神社」があります。
道修町の薬種商ではもともと中国の薬の神である「神農氏」を尊崇していましたが、1780年(安永9)、日本の薬神である「少彦名命」を京都五条天神宮から当地の仲間会所に勧請し、以後神農氏と合祀するようになりました。
大塩平八郎の乱でその場所はいったん焼失しましたが、その後境内地を拡充し、社殿・社務所を新築し、1910年(明治43)独立した神社となりました。
道修町通に面した「くすりの道修町資料館」の横の狭い参道の奥に本殿があります。
毎年11月22日・23日に「神農祭」が営まれます。この祭りは「とめの祭」とも呼ばれ、大阪の年中行事の掉尾をにぎやかに飾るものです(始まりは「十日戎」)。病除祈願のお守りとして笹についた「張り子の虎」が授与されます。
2007年、大阪市無形民俗文化財(民俗行事)に指定されました。
また、2004年(平成16)、神社の入口に「春琴抄の碑」が建立されました。谷崎潤一郎の小説「春琴抄」はこの町が舞台なのです。

医神アスクレピオス像
堺筋から道修町通を東に入った「扶桑道修町ビル」の玄関前に医神アスクレピオスの像が展示されています。
アスクレピオスは、太陽神アポロンの子、もとテッサリアの地底神として蛇を友としていましたが、ケンタウロスのケイロンから医療を習得して医薬神となり、人々の病を癒やし、古代のギリシャ人の崇敬を集めました。蛇は脱皮することから、若返りのシンボルとされ、蛇杖は後に医学の象徴とされました。

弁護士 梅本 弘