弁護士のエッセイ

2018年03月01日
無益なことを学ぶ

私は、昨年、奈良にある某大学の聴講生となり、考古学概論と特殊講義の二つの講座を聴講した。私は、弥生後期から古墳時代前期に興味があったので、考古学全体を体系的に俯瞰する意味で考古学概論を、また弥生後期から古墳時代前期を詳しく理解するために特殊講義を受講することとしたのである。弥生後期から古墳時代前期は、いわゆる邪馬台国論争に直結する時代である。
私は、途中で授業に飽きてしまうのではと思いながら大学に通い始めたが、予想に反して楽しくてしかたがなく、毎週の講座が待ち遠しいほどになった。予習・復習もかかさず、大学の図書館で籠ったりもした。考古学というのは、我々の法律実務と共通するところがある。考古学は、遺物や遺跡から得られる、わずかではあるが確実な証拠から、遠い昔の生活だけではなく、国家形成のプロセスまでを読み解く学問である。この手法は、わずかな客観的証拠から過去の事実関係の全容を立証するという法律実務と同じ手法なのである。教室には、私を含め、中高年の聴講生3名がいた。お互い、自然と会話するようになり、授業の疑問点や自分の考えを披露しあい、あるいは議論する関係となり、さらに楽しさが増した。

私は、最近煙草を吸うようになり、休み時間などは、図書館横の喫煙コーナーに行くようになった。そして、あるころから、煙草好きの初老の人と、この喫煙コーナーでよく出会った。別の講座の聴講生かと思っていたが、この方はこの大学の江戸文学の名誉教授であることがわかった。煙草が縁でよく話すようになり、一度、自分のセミナーを見学してみないかと誘われ、若い女学生と一緒になって、江戸時代の草紙をいろいろと見せていただいたりもした。
この教授と雑談をしている中で、私が「聴講生が本当に真面目に勉強しているので驚きました。」というと、この教授は、「人間、歳をとると無益なことを学びたくなるんですよ。」と答えられた。確かに、大半の勉強は、なにかの目的のための勉強である。学生時代の勉強も、よりよい会社に就職するためであったり、資格を得たりするためのものである。社会に出た後も、仕事に関連する勉強が多い。つまり人生の大半は、生活の糧を得るために学んでいたのだ。

しかし、聴講生は違う。なんの目的のためでもなく、なんの利益ももたらさず、自分の知的興味を満たすためだけのために勉強している。考古学に詳しいからといええ、なんの箔付けにもならないし、返ってマニア的にみられたりして、有益性など全くない。しかし、楽しい。無益だけど楽しい。それだけでいいではないかと思う。
この教授の「人間、歳をとったら無益なことを学びたくなるんですよ。」という言葉がとても心地よく聞こえた。今年も聴講を続けようと思う。

弁護士 片井 輝夫