弁護士のエッセイ

2017年02月01日
機械式時計の勧め

「携帯電話があれば腕時計など要らない。」
このように考える人は増えているだろう。数年前のアサヒホールディングスの調査では、20代で腕時計を付けている人は3分の1、30代で2分の1強、上の層ほど着用率が上がり70台以上は約90%とのこと。直近であればさらに着用率が下がっているだろう。
時間を知りたいのは誰でも同じだ。大事な時、急いでいる時などはできるだけ正確な時間を知りたい。このような時に見るべきはスマホである。自動補正機能のあるものを除けば、クォーツ時計はわずかながらずれていくから技術的にはもはや時代遅れだ。そうすると時間を知るという機能面でいえば、毎日数秒ずつずれていく機械式時計を見ることにアバウトな時間を知るという以上の意味はない。機械式時計はもはや古代の遺物というべき存在ということになる。

昨年、私はそんな機械式時計の二代目を買った。初代は弁護士になって5年目、二代目は10年目。酒もタバコもギャンブルもやらない私だが、機械式時計の購入にだけは余念がない。いつも心の中で時計貯金をしている。その魅力を自分なりに語ってみたいと思う。

最初に時計を買ってもらったのは小学生の時だった。ガンダムの顔がケースになったデジタル時計だ。500円か1000円という代物だったが大喜びでしばらくは毎日付けていた(すぐ飽きたような気もする・・・)。中学生、高校生のころは何か安いデジタル時計を持っていたような、かすかな記憶しかない。
大学生になって少し時計に興味を持った。当時、スウォッチというブランドが流行っていた。クォーツだがスイス製で非常に薄く、デザインが若者向けでカッコよかった。5000円位からあったと思う。
この「スウォッチ」は「スイス製時計」の意味かといえばそうではなく、新しい時計という意味での「セコンドウォッチ」の略だという。1960年代以降、日本製クォーツ時計に市場を席巻されて衰退の一途を辿っていたスイス時計業界が巻き返しを図ったブランドだ。このブランドは大いに成功したが、その戦略の恐ろしいところは中長期的な展望にある。スウォッチは安いのでたくさん売れても売上の面で限界がある。例えば、5000円のスウォッチ100本と50万円のロレックス1本は売上では同じだ。しかし安くても、時計に興味を持った若者が将来的によりよいスイス製時計に手を出す可能性は高まる。例えば、スウォッチを買った100人の若者から何人かスイス製高級機械式時計を買う者が出れば市場は数倍になる。ちなみに30万円以上が高級時計の範疇ということらしい。
現在、高級機械式時計市場は完全復活を遂げており、スウォッチの戦略は的中したといえる。このような解説を目にした時、私は、「あ、オレだ。」と思わざるを得なかった。

ではなぜ薄くてペラペラの私のスウォッチが高級機械式時計になったのか?
私は社会人(司法修習生)になって気付いたことがある。
「スーツにスウォッチはペラペラ過ぎる。」
また、司法修習中に見た指導弁護士のブルガリが眩しかった。
「この時計、毎日10秒以上遅れるんだよ。ハハハ。」という指導弁護士の言葉が記憶に残っている。今思えばオーバーホールが必要な可哀そうな状態であった。
全てスウォッチの陰謀の通りに運んでいるかのごとくだが、かくして私は早急にスウォッチを卒業しなければならなくなった。しかし、司法修習生の給与でロレックスは無理であるし、そもそもサマにならない。がんばって2万円位の予算を組み、ネットで中古のセイコーを購入した。これが最初の機械式時計で弁護士4年目まで愛用した。なお、新品なら5万円位のものを買ったつもりで喜んでいたが、後年調べるとアジア市場向けにセイコーが作っている廉価版で値段相応だった。

ここまでの話では何か私がとても軽い人かのような印象になってしまうので以下ではもう少し高尚な話を試みる。

まず、機械式時計が教えてくれるアバウトな時間の意義だ。
先に述べたが、21世紀の今、正確な時間を知る手段はいくらでもある。振り子式時計(あるいは機械式腕時計)の時代まで社会の時間は現在より大分アバウトであったが、クォーツ時計などの発明を経て、現在は秒単位以下の時代になっている。一世紀前なら待ち合わせ場所に人が来なくとも30分~1時間位はそのまま待ったのかもしれないが、今なら数分遅れれば携帯電話で相手に状況を確認するだろう。電車も秒単位で動いているし、電子取引であれば1秒未満で大量の取引をしたりする。何かにつけ時間の正確性がより追及されていく傾向にあり、少なくとも真面目に仕事をする上では時間に正確であればあるほど良いとされる。しかし、本当は皆、ある程度アバウトに過ごしたいと考えているのではないかと思う。
例えば、仕事中に時計を頻繁に見る人は珍しくない。何か急いでいるのだろう。確実にいえることは、その人は何らかの気持ちのよくない緊張状態にあるということだ。私の場合は法廷にダッシュする時が多い(スマホを何度も見る。冷や汗をかきながら。)。
他方、オフの人はどうだろうか。何かの予定との関係で時計を頻繁に見るならその心境は仕事中とあまり変わりがないかもしれないが、自分が待ちわびている予定のために時計を見る場合は幸せな緊張状態だろう。そして、特に予定がないのに頻繁に時計を見る人はまずいない。いるとすれば時計が好きで仕方がない変な奴くらいだろう。時計を見ないでよいアバウトな時間を過ごしている時が最高にリラックスしている状態だと思う。例えば、午後1時位になったらご飯を食べようとか、遊びに出かけようという状態であり、分単位、まして秒単位の時間には関心がない状態である。
生物の本能として、時間はそれほど正確でなくともよいのだ。
この観点でいえば、機械式時計が示す時間は確実に優雅な時間である。時計は秒単位で動く世間と一線を画したマイペースな時間を表現する。
夜になって事務所の電話が止み、人も少なくなりひっそりとしてくると、わずかにカチカチカチと時計の脱進機の音が聞こえてくる。この音は1時間に28,800回、1分に480回するのでかなり早いが、動物でいうとハムスターの心拍数と同じだ。聞こえるか聞こえないかという小さな音であるからか疲れた体にはとても心地がよい。イライラした気持ちをなだめてくれているような気もする。言うなれば心の整復機能のようなものがある。
なお、仕事の面でも、凡そ正確な時間を教えてくれるほか、毎日数秒ずつ早まっていくという機能がのんびりしがちな私を急がせてくれるので、きちんと役に立っている。

次に、人が手で作るものへの憧憬だ。ロボットに委ねてしまえばミクロン単位の物を作ってくれる時代を迎えている。より細かく正確に物を作るという意味では、もはや人は機械に及ばないのかもしれない。しかし、人が人の作ったものと機械が作ったもののどちらに惹かれるかという観点では、人の作ったものに軍配が上がることが多い。人の手で作られた工業品や美術品、物体以外であれば音楽の演奏など、機械的正確性を欠く人の感性が創作したものにこそ強く惹かれることについて異論はないだろう。
例えば私は最近、田島享央己氏の木彫刻にとても惹かれる。氏によれば彫刻の耐用年数は2000年位で、買う前には鈍器で自分の頭を2回強く殴る必要がある。この辺りは時計と似ているが、置物だから毎日脇に抱えて一緒に移動することはできない。
他方、機械式腕時計は身に着けられる工芸品といえる。現在もほとんどの機械式時計の構造は振り子時計の仕組みをテンプという小型の仕組みにしたもので、数世紀の間変化がないとのことだ。そして、工程は千差万別であるが、時計職人が多数の部品を製作、検査、修正し、装飾を施し、組み上げ精度を確保してやっと完成となる。テンプを構成するヒゲゼンマイの材質には最新の材料が使用されているし、最新の工作機械も導入されているが、基本的に工芸品である。装飾については、フォーマルなデザインのものに限らず、スポーツ向けであれ軍モノであれ特に多大な労力が注がれている。対極にあるアイフォンは世界に億単位で存在するが、高級機械式時計は大量生産に向かないため、世界に数百~数千しかない希少なモデルを買える。
高級機械式時計は工芸品であり、かつ、汎用品に比べるとはるかに希少である。身に着ける物の数と個性が少なくなってきている現代において、少し背伸びをして自分の好きな機械式腕時計を買い身に着けるということには、特別な意味を見出しやすいと思われる。

また、長年愛用できる面も特別感を高めてくれる。
最近では銀座の老舗時計店が、パテックフィリップという時計界最高のブランド時計を載せ、時計が世代を継いでいくというセンセーショナルな文言の広告を地下鉄御堂筋線梅田駅に出し、日々、時計マニアの心を煽っている。パテックは一番安いものでも、お父さんが家族のためにプリウスを買いに行ったが、帰ってきたらパテックを買っていたというくらいの事故が起きなければ、一般人は目にできないものである。
私の身近なところでは父親のグランドセイコーがある。これはまさに、スイス時計業界を存亡の危機に追いやった犯人のクォーツ時計であるが、高級機械式時計並に作り込まれたものであり、公務員であった父の月給が10万円に満たないという時代に結構な値段を付けていたらしい。結婚前に買ったものと思われる。私はクォーツ時計にほとんど興味がないので父の時計が世代を継がれる可能性は低い。しかし父にとっては一生モノのようで稀に修理をしながら何十年も使っている。多分、死ぬまで使うだろうし、家族で使う家や自動車を除けば父にとって最も高い買い物で、かつ、最も長く愛用したものということになるだろう。コンパクトであるため形見として置いておくには最適と思料される。
なぜ長く使うことになるのかというと、まず、アフターサービスを完備しているブランドのものであれば、キズが付き、精度が落ちたものでもオーバーホールにより新品同然に仕立ててくれるというバックボーンがある。
次は所有者の愛情の問題だが、時計それ自体が美しいことや購入に努力したことの他、購入後も①常に可愛がらなければならない(日々のゼンマイの巻き上げと頻繁な時間調整)、②可愛がれば何十年も持つ(4~5年に一度の安くないオーバーホール)、③可愛がりの生活習慣化によって使えば使うほど愛着が湧いてしまうというループが生じるのである。
さらに、仕事で失敗しても、夫婦喧嘩をしても、時計だけはいつも自分に優しい。そういえば先日、私が勝った時計を見てニヤニヤしている時に、妻から「時計があれば私なんていらないんでしょう?」と言われたが、私は「どちらも必要だ」と言うのが精一杯だった。事実、時計と一緒にいる時間の方が長いし、一日に見る回数も時計の方が多いのだから難しい質問をされたものである。
身近にあるもので何十年後もありそうなものがどれだけあるかを想像してみるのもよい。スマホ、気に入っている服、靴、ペン、自動車などはいずれも基本的に消耗品であり、哀しいかな遠くない将来に終わりが来る。しかし機械式時計は時代を超越してしまうだろう。

最後に自分の仕事との関係でも時計を意識する。
機械式時計はテンプ、ヒゲゼンマイ、多数の歯車など百~数百の部品から成っている。全ての部品が機能を担っていて、一点一点を正確に作成し、かつ、組み合わせないと時計は機能しない。この点は弁護士の創作物と類似する。弁護士としては文書の一行一行に意味を持たせたいし、文書でもって目的を達したい。そのための努力は惜しまないのだが、扱うものの抽象性、作成する者と受け取る者の個性差(性格、年齢、知識、職業、価値観その他諸々)、作成のための制限時間などの問題から、創作物が完全であるということはない。これに対して時計職人の作る時計が体現する機能や美観は完全性を有しているといっても過言ではない。弁護士は時計職人に永遠に勝てない、いつかは時計職人のような仕事をしてみたいという憧れによってさらに時計に魅入られていくことになる。

かくして、10年後、いや5年後には別の時計を買えるように邁進していく所存である。新しい時計をメインに使うことになるかもしれないが、古いものは永遠のコレクションとして大切に保管されることになる(遠い目で述べる)。

弁護士 高橋 英伸