弁護士のエッセイ

2011年11月01日
友情について

友情とは意外にあいまいな言葉なような気がする。
夫婦であれば、婚姻届けを出すのが基本の形であろうし、親子とか上司と部下の関係などもはっきりしている。
また、夫婦であれば、同居の義務や扶養の義務、貞操の義務などの義務が民法で定められているし、上司と部下でも、業務上の命令には部下は従わなくてはならず、一方上司は社会通念上許させる以上のパワーの行使は許されない等のルールが存在する。

しかし、友情となれば、届けを出すわけでもなく、関係性を拘束するきまりがあるわけでもない。
とてもふわふわしたものであるのに、学園もののドラマなどでは金科玉条のごとくこの世で一番すばらしく価値のあるものとして扱われている。

友情とはどんなものなのだろう。
この感情を共有する人と交流すると楽しくて用事もないのについ交流してしまう、というのが友情の本質のような気がする。
喜びは2倍に、つらさは半分に、なんていう、言い回しがある。喜びが2倍かどうかは立場の違いや嫉妬心などもあるだろうから当てはまらない場合もあるだろうけれど、つらいときに友達が的確に慰めの言葉を発してくれれば、本当につらさは半分近くに減ってしまうからすごいものだ。

友情の性質として重要なものに、義務がないというのがあるのではないか。
友人が困ったときには助けるとか、共感して慰めるとかとかいうことが多いけれどもそれは自発的な気持ちから行うものであって、義務があるからではない。

その裏返しとして、友情があるからと言って相手に何かを求めることは難しいと思う。
もちろん親切にしてもらうことも多いのだが、請求権があるわけでもなく、あくまでこんなにしていただいて嬉しい、という結果論というか棚ぼた的なものであると思う。
こうしてもらえると思ったのに、とか、自分はあんなにしてあげたのに、とかいう気持ちほど友情から遠い感情はない。

私は、どちらかといえばおせっかいなほうなので、人に親切にするときは自分にあるブレーキをかけている。それは「この人との関係が変わっても、こんなにしてあげたのにと、後で恨めしく思うことがない程度に親切にする。」というものである。
そのときの感情ではもっとしてあげたいときでも、あんまりしすぎるとかえって友情に罅を入れてしまうことがあるからである。
このブレーキを自分に課していれば、万一結果的にしすぎたかも、と思ってもそれは自分のミスなので、相手に恨みがましい気持ちを抱かなくてすむ。

友情がもっとも危機を迎えるのは、お互いの環境がかわったときである。
生活の基盤が異なると自由になる時間帯や、興味の対象や価値観などが一致せず、難しい場面を迎える。
経済面の格差も友情を傷つける一因となりうるだろう。

そういうときは、迷わず距離をおくことが大切であると思う。
友情は交流することが楽しい、が基本なのだから、無理は禁物である。
距離をおいたうえで、新しいつきあい方が工夫できることもあるし、また、一致しなかった部分が再び一致する場合もある。
かつて存在した「友情」に拘って無理につきあいを続けても楽しくもなんともないし、義務のようになってしまい、友情の本質から離れてしまう。

友情をはぐくむためにもっとも重要なことは、自分が孤独に耐える存在になることだと思う。
孤独に耐えられなければ、群れているだけの不本意なつきあいを拒むことができないし、関係が変化したときにいったん距離を置く勇気もなくなってしまう。
心の強さがあってこそ、相手を思いやることもできるし、相手に過剰な期待をして依存すぎることもないだろう。
そう考えると友情をはぐくむのもなかなか厳しい道ではある。

個人的なことを言えば、学生時代の友人で心優しく強く美しい女性がいる。けんかなど一度もしたわけではないけれど、今はお互いの職場や環境が違ったりしてなかなか会えていない。
形式的なつきあいはしたくないので、無理には交流はしていないけれど、友情の火種は私の心のなかにいつも残っていて、いつか交流を復活させる日を楽しみにしている。

弁護士 池野 由香里