弁護士のエッセイ

2019年01月01日
プチ遭難事件

今年5月の連休に、私達夫婦とご近所さん3名(男性1名女性2名)の5名で立山の室堂から雷鳥荘という山小屋まで往復という春山ハイクに出かけた。メンバーは、皆70才前後であるが、全員北アルプスの3000メートル級の夏山・春山の経験者である。
立山駅から美女平まではケーブル、美女平から標高2400メートルの室堂平まではバスで入れる。室堂平には立派なバスターミナルやホテル立山があり、近くに雪の大谷という高さ10メートルを超える積雪のバス道があって、一大観光地となっている。5月連休の室堂平は、今では韓国人、中国人などの外国人観光客が立山の眺望に憧れて、運動靴にジャンパー姿で観光している。この日も千人以上の観光客でごった返していた。この辺りは完全に下界なのである。

私を除く4名は稜線から黒部ダムや槍穂高連峰を眺めようということで、室堂から一ノ越という立山と浄土山の鞍部まで登る計画である。私は、写真撮影だけが目的なので、この4名パーティと別行動をとった。私は、スノーシューズにストックという軽装で、室堂から写真撮影しながらその日の宿である雷鳥荘という山小屋まで行き、そこで4名パーティと合流することになっていた。

室堂から雷鳥荘へは、概ね北方向で、夏であれば30分以内の行程で、若干の登り下りはあるもののほぼ平坦で、積雪を考えても40分もあれば到着する。他方、4名パーティの行程は、室堂から高度差200メートル強の一ノ越まで、概ね東方向に約1時間登り、それから雷鳥荘まで1時間半程度の下りと予想された。この4名パーティは、登山靴にアイゼン、ピッケルという春山装備であったが、地図、コンパスを持っていなかった。ツエルトというビバーク用簡易テントなど非常装備も持っていなかった。こういう私も地図、コンパスを持っていなかったのである。

我々全員、室堂など観光地という思いがあった。しかも、全員、雷鳥荘はなんども通過したことがある。ここは、登山者にとって、剣岳あるいは剣沢方向への登山のアプローチに過ぎないという感覚なのである。甘くみていた。

私たち5名は、まず室堂で、観光客と一緒に雪の大谷を見物し、それから別行動となった。この段階で、室堂一帯は、立山から奥大日岳までの稜線がくっきり見えるほどの晴天であった。そして、4名パーティは一ノ越を目指して室堂を出発した。私は時間が有り余っているので、ゆっくりターミナルで蕎麦を食べ、遅れて室堂バスターミナルを出発しようとした。ところが、私が室堂のターミナルを出ると、それまで晴れていたのに、濃いガスがかかっていたのである。地図・コンパスを持ってきていなかった私は、まずいと思い、ターミナル内に引き返し、観光案内板のルート図を頭に叩き込んだ。ルート図によると、観光客散策道を北西に進み、みくりケ池を右に見て進むと、みくりケ池山荘に出る。みくりケ池山荘を左に見て、北にさらに進むと登山道は、右に大きく曲がり、次いで大きく左に曲がると雷鳥荘に出る。

室堂ターミナルを出ると、わずかな観光客が雪で遊んでいたが、散策道に入ると、観光客も登山者もおらず、一人でガスの中を行くことになった。視界は50メートル以下で、いわゆるホワイトアウトの状況である。右手にみくりケ池らしい窪地があったので、これを右手に見て進むと、みくりケ池山荘に到着した。わずか15分程度である。ここまでルートを外しておらず、ホッとする。さらに、みくりケ池山荘を左に見てルートを北に進む。ルートといっても夏と違い全面雪で、かすかな踏み跡がある程度である。雪道ルートを表示するため、所々赤布のポールがあるが、その赤布もほとんど雪に埋もれていた。その後、私は、一ヵ所迷い、いきなり前に崖が現れ、一瞬肝を冷やしたが、地形を思い出し、なんとか雷鳥山荘に到着することができた。私は、観光客用の案内図を見ずに出発していたら、無事に雷鳥荘にたどり着けたかどうか自信がない。このころの視界は30メートル程度まで悪化していた。

雷鳥山荘で一服していると、別行動の4名パーティのことが心配になってきた。私は、4名パーティのリーダー的なNさんという女性に電話した。室堂付近は観光地なので、携帯が繋がるのである。彼らは、室堂出発後一ノ越を目指したが、天候悪化のため諦め、雷鳥荘へ向かっているとのこと。しかし、やはり、ホワイトアウト状態で、自分の位置が把握できていない状況であった。私が、みくりケ池を右手に見て進めば、みくりケ池山荘があるから、これを左に見て進んで、大きく右方向に上り、丘の頂上から大きく左に下ると雷鳥荘だと伝えるが、Nさんは、みくりケ池らしき窪地を左手に見たとか、みくりケ池山荘は見ていないと言う。

さらに30分経過しても彼らは到着しない。もう一度電話すると、今度は、「位置がわからない。寒さで言葉が出ない。」などと言ったまま電話が切れてしまった。私もこれ以上ルートの話をすると、彼らが余計混乱するのではと思い、それ以上電話での会話はしなかった。気温はどんどん低下し、小屋の温度計をみると、氷点下になり始めていた。

彼らはリングワンデルグ状態(方向や傾斜が分らなくなって、同じところを円を描くように歩きまわる状況)に陥っているのかも。これは危ない状況である。私は、助けに行くべきか、待機すべきか迷った。一人で助けに行くと二重遭難の可能性もあるので、相当の覚悟がいる。しかし、このまま放っておくわけにはいかない。

私は、持っていた防寒具・雨具・予備の下着含めて、すべての衣類を着て、余分な荷物をすべて雷鳥荘に置いて空身で出発することとした。視界はやはり50メートル程度である。
雷鳥荘を出発して5分くらいのところで、室堂方面から下って来る若い男女2人パーティに出会ったので、私が、「中高年男女4名パーティに会わなかったですか。」と尋ねると、「うーん。いや、会ってませんね。」と言う。

これを聞いて、私は絶望的になり、みくりケ池山荘まで行って、もし見つからなければ、みくりケ池山荘で救助を求めなければならないと思った。
私は、いよいよホワイトアウトの中に身を投じるのかと、少し迷ったが意を決し、いよいよ出発しようとした。そして、念のため、私は、大声で「おーい!おーい!」とみくりケ池山荘方向に向かって叫んでみたのである。
すると、なんと「はーい!はーい!おとーさあーん!」と妻の声がしたのである。そして、ホワイトアウトの中から4名パーティが現れた。ホッ。

彼らの話では、完全なホワイトアウトで、どこをどう来たかはわからないとのこと。ただ、途中で、一瞬ホワイトアウトが晴れ、雷鳥荘が見えて、おおよそのルートがわかったということであった。

翌日は快晴。雪の立山、奥大日など、下界では決してみることのできない絶景を眺めながら、室堂ターミナルに戻った。もちろん、彼ら4名は、迷った現場を確かめながらである。すると、4名は、方向を見失っていたときに見た地形から、一時全く逆方向(雷鳥荘方向ではなく、みくりケ池山荘から室堂方向)に歩いていたことが判明したのである。それなりの山経験者である彼ら4名にとって、逆方向に向かっていたというのは相当なショックなようであった。あらためてホワイトアウトの危険性に驚いたのであった。

私は、4名に「昨日は、遭難状態に近かったと思う。」というと、彼ら4名は、「いや、遭難状態とまでは言えない。」と言い張っていた。少なくともプチ遭難状態であったと思う。

弁護士 片井 輝夫